九州の十字路される九州自動車道鳥栖IC。
北は福岡、南は熊本・鹿児島、
西は佐賀・長崎、東は大分。
鳥栖は重要な交通の要所となっています。
鳥栖市田代周辺。緑の線が長崎街道で、
青くぼかした辺りが田代宿跡。
江戸時代。
鳥栖の約半分は対馬藩の飛地だった場所で、
田代領は長崎街道の宿場町として栄え、
対馬藩の重要な資金源となっていました。
田代宿には代官所が置かれ藩校も開設。
方々から特産品が流通して市場が開かれ、
野菜、木綿、茶、紙、煙草等が売られた他、
蝋屋、油屋、酒屋、薬屋等様々な業種が、
藩の許可を得て営業していたようです。
特に売薬は積極的な奨励で広まったもので、
田代売薬は富山、大和、近江と並んで、
四大売薬の一つでした。
これは朝鮮貿易で大陸医学が伝わった為で、
現在でも久光製薬等の製薬会社の工場が、
鳥栖には多く存在しています。
「長崎街道 田代宿」標。
田代宿は多くの旅籠屋が並んていたようで、
旅人や行商で大変な賑わいだったようです。
「田代代官所跡」。
対馬藩の飛地基肄郡と養父郡の代官所で、
1万3000余石の飛地を管理していたという。
「旧対馬藩田代領代官所跡」碑。
鳥栖市立田代小学校の正門脇に、
小さな碑があります。
「鳥栖市立田代小学校(田代代官所跡)」。
現在の田代代官所跡は、
鳥栖市立田代小学校の敷地。
嘉永4年に改築されたことが記録に残され、
指図には約60の部屋が記されており、
その一部は2階建だったという。
「旧対馬藩校東明館跡入口」碑。
代官所跡の道路向かいにある石碑。
小藩規模の石高を管理する為、
藩士も相当数派遣されていたようで、
彼らと子弟の為に藩校が設置されました。
入口と刻まれていますので敷地はその奥、
久光製薬の本社工場あたりと推測されます。
この跡地は旧東明館のあった場所で、
安政2年に代官所西側に移転しました。
幕末期の田代代官は尊皇攘夷派の平田大江。
当時の対馬藩は佐幕派の勝井五八郎と、
尊攘派の家老大浦教之助が争う内訌状態。
尊攘派が拡大すると勝井は危険を察知し、
出張の名目で対馬から離れます。
平田は尊攘派でしたが大浦派と距離を置き、
大浦政権を打倒する為に勝井に協力。
勝井は平田の協力を得て、
同志26人と共に対馬に帰還。
勝井派と合流して藩庁を占拠します。
藩主宗義達に大浦の非を説いて退け、
家老に任じられて政権を掌握しました。
しかし勝井は尊攘派の弾圧を開始し、
幽閉された大浦は絶食の抗議をして死去。
多くの尊攘派が捕らえられて処刑されます。
そんな中で田代に残っていた平田の許に、
俗論派の台頭によって長州藩を追われ、
九州に亡命してきた高杉晋作が現れます。
晋作は平田に協力を求めますが、
対馬藩は上記の様に内訌の真っ最中。
晋作に手を貸せる余裕はありませんでした。
仕方なく佐賀藩主宛の書状を平田に託し、
晋作は平尾山荘へ向かってます。
※平田は書状を持って佐賀城を訪れますが、
門前払いに近い扱いを受けています。
後に平田は本国の尊攘派を受け入れて、
尊攘派組織尽義隊を結成。
福岡藩や長州藩の協力も要請し、
外圧を以て勝井派の排除と勤皇を要求。
藩主義達は勝井派を排除します。
このまま勤皇に移行すると思われましたが、
門閥派による佐幕的政策が執られ、
平田はなんとか藩論を勤皇へ導こうとし、
決死隊60余名と共に対馬へ渡りますが、
藩論は覆せずに殺害されています。
田代領は前記したように1万3000石。
田代宿は市場も開かれています。
この地を抑えて動かずに時期を待ては、
挽回の機会もあったのではないでしょうか。
朝鮮貿易と田代宿。
この2つのドル箱を持っていながら、
最終的に藩財政は破綻寸前であったという。
幼い藩主の許で争いを繰り返していますが、
長州藩の村田清風、薩摩藩の調所広郷など、
ドル箱を生かせる執政が藩にいたならば、
雄藩に匹敵していたかもしれませんね。
■長崎街道の宿場町
■関連記事■
・佐賀県鳥栖市 轟木宿跡
長崎街道の8番目の宿場町。
・福岡県福岡市 平尾山荘
晋作は田代宿より平尾山荘へ移りました。
萱方町のいぬお病院が、建設される前は、なんだったんですか
コメントありがとうございます。
いぬお病院が建設される前ですが、
調べてみても詳しい事はわかりませんでした。
萱方町は江戸期には萱方村という村落でしたが、
街道や田代宿とは少し離れていましたので、
通常の農村であったと思われます。
また池田下溜池にも程近い事から、
昔は田畑であった可能性が高いでしょう。
いぬお病院のHPには沿革がありませんので、
その創設時期はわかりませんが、
創業者は土着の人ではないようですし、
どこからか移住してきて、
開業したのではないでしょうか?
以上推測で申し訳ありません。
正確な事はいぬお病院に聞かれるか、
鳥栖市の図書館で調べればわかると思います。