佐賀県神埼市にある仁比山神社の参道沿いに、
幕末の幕府奥医師伊東玄朴の旧宅があります。
玄朴は仁比山神社仕えた農民執行重助の長男で、
漢方医古川左庵に入門して医学を学び、
父の死後に自宅で医院を開業しました。
約4年間村医者として地域に尽くしましたが、
西洋医学に興味を持って、
蓮池の蘭医島本良順に入門し、
長崎で通詞猪俣伝次右衛門に蘭語を学び、
シーボルトの鳴滝塾で蘭医学を学びます。
蘭商館長の江戸参府にシーボルトが随行すると、
通詞猪俣の家族と共に江戸に同行。
その後、シーボルトは長崎に帰還しますが、
玄朴は江戸に残り番場町に医院を開業し、
猪俣の娘である照と結婚しますが、
同年にシーボルト事件が発生。
この事件への連座を避ける為に、
佐賀藩士伊東仁兵衛の義弟となり、
伊東玄朴と称します。
御徒町に象先堂を開いて医学を志すものを育て、
多くの蘭医学書も翻訳。
その名は天下に聞こえ、
天然痘予防に腕種人痘法を用いて成功しました。
これを知った宇和島藩主伊達宗紀は、
玄朴に実娘正姫への人痘接種をさせています。
人痘より牛痘が優れていると知っていた玄朴は、
牛痘苗入手を佐賀藩主鍋島直正に進言。
オランダから長崎を通じて入手に成功し、
直正の長女貢姫への牛痘接種させています。
安政5年、大槻俊斎や戸塚静海らと、
「お玉が池種痘所」を開設。
同年に幕府奥医師となると、
大奥の蘭医増員を図ってこれに成功し、
西洋医学の普及に努めました。
お玉が池種痘所は幕府直轄となって、
種痘所は「西洋医学所」に改称。
取締役を命じられ、蘭医の法印を与えられます。
西洋医学所頭取であった大槻俊斎が死去すると、
後任として緒方洪庵を招聘していますが、
翌年に洪庵は死去。
松本良順が頭取に就任しています。
しかし、派閥争いからその良順に弾劾され、
奥医師を免ぜられて小普請人に降格。
維新後は横浜に移住して、
明治4年に死去しました。
「佐賀県史跡 伊東玄朴旧宅」。
漢方医古川左庵に医学を学び、
医院を開業した際の旧宅。
ここで約4年間地域民を治療しています。
残念ながら訪問時は工事の為に閉館中。
敷地内に入る事はできませんでした。
敷地内に入れないとはいえ、
道路沿いにありますので、
旧宅の全景は写真に納められました。
旧宅内には玄朴が翻訳した蘭書「医療正始」や、
象先堂のパネル展示などがあるとのこと。
まあ200年前の建物ですからね。
メンテナンスは行った方がいいでしょう。
「蘭醫 伊東玄朴先生誕生之地」碑。
旧宅後ろの崖に建てられています。
ズームでなんとか写真が撮れました。
「仁比山神社」。
仁比山神社は山や農業の神大山咋神を祭神とし、
地元では山王さんと呼ばれ親しまれています。
玄朴の父執行重助は社領の農民でした。
天然痘の脅威から民を守り、
遅れていた日本医学に貢献した玄朴でしたが、
医師達による派閥争いで失脚してします。
本来医師とは患者の治療を生業としているもの。
最近「それでも医者か?」と感じる医師が多い。
医師を志したのは何故?
多くの人を治そうと思ったから?
それとも親が医者で継ぐ病院があったから?
若しくは良い収入を得る為?
現在の医師らも自分らの職業の歴史を学んで、
医師とはどうあるべきものかを、
しっかりと考えてもらいたいものですね。
※もちろん現在でも良い医者は沢山います。
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