下関市綾羅木 中山神社/中山忠光墓所

中山神社境内にある中山忠光の墓所。
中山忠光は北浦での逃避行の後、
田耕にある長瀬の渓谷で殺害され、
綾羅木に運ばれて埋められました。
埋葬地には後に墓碑が建てられ、
その霊を慰める為に中山神社が建立。
現在に至っています。


藤原忠光卿 神靈」。
墓碑は慶応元年に奇兵隊が建立し、
長府藩が社殿を建てたとされ、
御霊屋的なものか?
後に社殿が墓碑から分離されており、
明治19年に500m東側に移されますが、
大正12年に現在地に再度移されました。

忠光は参議中山忠能の七男に生まれ、
安政5年に侍従に任官。
父忠能が朝廷で議奏を務めていた為、
中山家には尊攘志士が出入りしており、
影響を受けて過激な思想を持つに至ります。
文久3年に国事寄人に任じられますが、
岩倉具視公武合体派の暗殺を計画。
武市半平太らの協力により、
岩倉を蟄居処分に追いやりました。
その後出奔して長州に下向し、
久留米真木和泉の釈放を要求したり、
光明寺党の首領になったりしています。
京都に戻ると天誅組の主将に擁立され、
大和国で挙兵して五条代官所を襲撃。
しかし幕府の素早い対応によって追討され、
忠光は再び長州に逃れました。
逃れて来た忠光に対して長州藩は、
支藩の長府藩に保護を依頼。
忠光は長府藩領に匿われていますが、
密偵から逃れる為に北浦各地に潜伏し、
豊浦郡田耕に至っています。
その頃には長州では俗論党が台頭し、
忠光を邪魔とする長府藩から刺客が送られ、
潜伏先の田耕で暗殺されました。

忠光については当ブログで何度も取り上げ、
下関の関連史跡も網羅していますので、
宜しければ他の記事もご覧ください。

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