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天誅組の変に敗れた中山忠光は、
長州に落ち延びて長府藩に匿われますが、
俗論党の台頭によって邪魔となり、
密かに暗殺されてしまいます。
当ブログでも潜伏場所を記事にしてますが、
実際の日程は不明な事が多く、
はっきりとした行程はわかりません。
大罪人を匿っていたという事、
そして暗殺という最後から、
長府藩の正式な記録が作られておらず、
証言を繋ぎ合わせるより手段は無い。
しかし調べられたのが明治中期以降の事で、
証言者も老いて記憶も曖昧となっており、
正確な事がはっきりとしません。
仕方ないので日付は気にせず、
行程だけを追っていこうと思います。
文久4年1月4日。
中山忠光は延行村の潜居に約6ヶ月潜伏。
一緒に逃れてきた天誅組残党と離れ、
長府藩士国司直記が従者として付き、
侍妾に船宿の娘恩地トミがあてがわれた他、
小間使いとして1名が付けられたという。
※潜居は四畳半と三畳の二間だったという。
この延行での潜伏中も何度か脱走し、
海峡の台場等に赴いては、
国司らに説得されて連れ戻されました。
下関市延行 中山忠光朝臣隠棲之地
長府藩は忠光を匿っている事が知れれば、
お家断絶もありうるわけで、
忠光をもっと奥地に移すことを決め、
危険が迫っているなどど忠光を説得し、
延行から離れさせたのでしょう。
元治元年7月1日の行程。
延行を出発した忠光一行は安岡浦へ向かい、
安岡の長老村田庄三郎宅で宿泊してます。
※村田庄三郎宅の正確な場所は不明。
つづく。
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・下関市安岡 安岡浦
延行から安岡浦へ向かっています。