8月21日。
室津の観音院から移ってきた中山忠光は、
田耕の大田新右衛門宅に潜伏。
護衛として長府藩市三浦市太郎、松村良太郎が加わり、
賄方の宮原力造を雇い2ヶ月弱過ごしています。
※表の間と中の間の2部屋に、
忠光、恩地トミ、国司直記、三浦、村松、小使い1名が、
殆ど外に出ずに生活していたという。
その後、四恩寺(記事はこちら)に移る事になりますが、
四恩寺を見た忠光はそこに潜伏する事を嫌がり、
付近の大林万次郎宅で滞在する事とします。
それから24~25日過ごし、
山を散策したり、川で漁をしたり、
時には万次郎の木こりを手伝ったという。
そして11月5~15日のある日。
※日付に諸説あり。
刺客が迫っているからという庄屋山田幸八の勧めで、
急遽大田宅に移っています。
大田宅で風邪で寝込んでいた忠光は、
危険が迫っていると四恩寺へ避難を勧められ、
目立つからとトミや国司は留められ、
庄屋の山田と護衛の三浦と共に四恩寺へ。
四恩寺へ向かう途中の長瀬の渓谷で、
突如刺客に足を払われた忠光は川へ転落し、
そこで首を絞められて殺害されます。
※刺客は長府藩衣類方内田与三郎、佐野正右衛門、
福山吉兵衛、高田吉兵衛、近本伴右衛門、そして三浦。
他に野々村勘九郎、福永正介ら別動隊があったとも。
田耕での行程。
(10月中旬から11月15日あたり)
※11月5日に大田宅へ移り、
8日に殺されたという説が信憑性が高い。
賄方の宮原力造は翌朝忠光の様子を見に行くと、
途中の長瀬で血痕と争ったような跡を見つけ、
四恩寺に行っても忠光は来ていないとの事で、
忠光が殺害されたと知る。
国司と松村は忠光の凶事を聞き、
トミを連れて長府の江尻半右衛門宅まで護衛します。
※国司と松村が暗殺に関わったかは不明。
中山忠光を襲った刺客達は、
忠光の遺骸を庄屋山田幸八宅に運び、
用意されていた長持に詰めて塩漬にしました。
雇っていた3人の人夫と夜討峠にこれを埋めますが、
後日の発覚を恐れてすぐに掘り返し、
夜を徹して長府まで運ぼうとします。
しかし綾羅木で夜が明けてしまった為に、
諸隊との遭遇を恐れて綾羅木の浜に埋葬。
これが現在の中山神社の墓所です。
忠光の遺骸が運ばれる行程。
(11月5日から15日あたり)
忠光の暗殺は長府藩の佐幕派による指示とされ、
幕府に察知される事を恐れてのものだとされます。
しかしながら、わざわざ奥地に潜伏する忠光を、
病死に見せかけてまで殺す理由があったのでしょうか?
「実は匿っていたけれど殺したから許して」
なんて言える訳もない。ただ殺して埋めただけ。
殺さずともどうにかなったんではないかと思います。
田耕への移動時に実行犯の三浦が加わっていますので、
この時点で暗殺は決定されていたと思われれますが、
暗殺はそれから2ヶ月半も先の事ですから、
後に派遣された者から聞かされたのかもしれません。
遺骸を一度埋めて掘り返すなどの手際の悪さから、
周到に計画が練られたとも考えづらい。
殺した後の事は考えて無かったような気がします。
上記したように長府に運ぶ途中で、
夜が明けた為に綾羅木に埋めたというのが定説ですが、
長府に運ぶには綾羅木では道が逸れています。
仮に長府に運んでもその処理に困るはず。
初めから延行付近に埋めるつもりだったのかもしれません。
とにかく忠光は殺され、遺骸は綾羅木に埋められました。
忠光が延行に潜伏を始めてから、
田耕で殺されるまでの間、
下関は歴史的な事件が数多く起きています。
しかしそれとは全く関わりを持たず、
※とりあえず知られる限りでは・・。
逃避行を続けた挙句に忠光は殺されました。
何の因果がそのすぐ後に五卿が功山寺に入り、
1ヶ月余の後には功山寺で高杉晋作が挙兵。
長州は討幕に向かって進むことになりますが、
仮に忠光が生かされていたならば、
何かの役目を担ったのでしょうか?
①/②/③/④/⑤
■関連記事■
・下関市豊北町田耕 本宮中山神社
中山忠光が殺害された現場。
・下関市豊北町田耕 四恩寺跡
忠光が潜伏する筈であった寺院跡。
・下関市豊北町田耕 夜討峠
忠光の遺骸を一時埋めたとされる場所。
・中山忠光の幽霊
殺された忠光は亡霊となって恨みを晴らします。