長州に逃れた中山忠光は潜伏先を転々とし、
田耕の大田新右衛門宅に2ヶ月弱程潜伏し、
その後は更に奥地の四恩寺に向かいます。
これは僕なりの推測なのですが、
脱走を繰り返して辺りを歩き回る忠光に、
幕吏の追求を恐れた長府藩の俗論派は、
四恩寺に座敷牢を建てて閉じ込めようと、
考えたのではないでしょうか?
そこで四恩寺に座敷牢の建設が開始され、
これが出来るまで大田宅に潜伏させ、
完成と同時に四恩寺に移動したのでは?
こう考えれば行動の辻褄は合います。
「本宮中山神社」。
忠光が殺されたとされる場所にある神社で、
もちろん祭神は中山忠光命。
ここよりさらに奥地へ向かった先に、
四恩寺の跡地があるようです。
ここで注意ですがgoogleMapを頼ると、
舗装された道を案内されますが、
これでは四恩寺跡には辿り着けませんので、
神社から約200m北の右手脇道に入ります。
途中までは車で行きましたが、
断念して歩いて進みます。
「四恩寺跡」。
しばらく歩くと到着。
四恩寺は萩の通心寺の末寺で、
田畑や宅地を毛利家より賜っていたという。
この毛利家が宗家か長府かは不明ですが、
潜伏地に定めた事から長府なのでしょう。
女流俳人田上菊舎もここを訪れ、
住持らと雅会を催したとの事ですが、
明治七年に通心寺と統合されて、
廃寺となっています。
「中山忠光卿故蹟」。
忠光は大田宅から四恩寺まで来ましたが、
待っていたのは牢獄のような場所でした。
上記しましたがこれは堂宇などではなく、
忠光を閉じ込める為に建設したもので、
座敷牢のようなものだったようです。
忠光がそこに入るのを拒否したので、
少し下った大林宅に潜伏する事となり、
新築した座敷牢は無駄となりました。
「本堂跡」と「四恩寺古蹟」。
細い石段を登った先にある本堂跡。
四恩寺の跡碑が建てられていました。
裏手には住職の墓も残っています。
「旧大林万次郎宅」。
実際に潜伏した大林宅が現存しています。
四恩寺からあまり離れていないのですが、
四恩寺への道からかなり戻らないと、
こちらには行けません。
忠光はここで24~25日間過ごし、
山を散策したり、川で漁をしたり、
時には万次郎の木こりを手伝ったという。
またも推測ですが忠光が座敷牢を拒んだ為、
三浦市太郎、松村良太郎のどちらかが、
その事を長府藩に報告したと思われます。
これを聞いた藩は忠光の暗殺を決定し、
暗殺者派遣に至ったのではないでしょうか?
大林宅で過ごしていた忠光は、
庄屋山田幸八より、
「刺客が迫っている」と告げられ、
一旦大田宅に戻り、
そして再び刺客が迫っているからと、
山田幸八に誘い出された忠光は、
現在の本宮中山神社のある長瀬の渓谷で、
絞殺されてしまう訳です。
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