大阪府堺市 堺旧港

堺津三津七湊の1つに数えられ、
古くから貿易港として栄えた場所でした。
堺商人達が南蛮貿易の拠点としましたが、
大坂の陣の戦火で堺の市街は壊滅し、
江戸時代鎖国政策南蛮貿易は廃止。
更に大和川の付替え工事により、
港に土砂が流入して港は機能不全となります。
この状況を憂いた吉川俵右衛門は、
寛政元年(1790)に堺港の修築を開始し、
多くの困難の末に文化7年(1810)に完成。
現在の堺旧港の原型が築かれました。


堺旧港」。
修築後は船舶も入れるようになり、
以前程ではないにせよ賑わいを取り戻し、
活気のある港となったようです。

幕末の文久3年8月16日。
吉村寅太郎天誅組約40名は、
淀川を下って大坂湾に出た後、
この堺港に入港して上陸しました。
彼らは中山忠光を主将に頂き、
五条で挙兵して五条代官所を襲撃。
天誅組の変を起こしています。
奈良県五條市 五條代官所陣屋跡

また慶応4年2月15日には、
仏軍艦デュプレクスが堺港に入港。
測量技師が港内の測量を行いました。
その間に仏水兵らは堺の町に上陸し、
市内で騒いで住民らを困らせています。
これに住民らが苦情を訴えた為、
警備を担当していた土佐藩兵が出動。
仏水兵らに帰艦を促しますが、
言葉が通じず小競り合いとなってしまい、
仏水兵が隊旗を奪って逃亡しようとします。
これに土佐藩兵は咄嗟に発砲した為、
仏水兵もこれに応戦して銃撃戦に発展。
仏水兵側に11名の死者が出ました。
事態は深刻化して国際問題に発展し、
成立直後の新政府は弱腰の対応を行い、
銃撃戦に参加した20名を死罪とし、
仏将兵ら立ち合いの許で切腹を開始。
1人ずつ切腹する土佐藩兵らは、
自らのを掴んで仏将兵らを一喝し、
その凄惨な現場を目の当たりにした仏艦長は、
仏国側犠牲者と同数の11名で中止を要請し、
9人が助命されるに至りました。
大阪府堺市 土佐十一烈士墓

竪川水門脇に呂宋助左衛門の銅像があります。

呂宋助左衛門之像」。
昭和55年にゼネラル石油(株)が建立した銅像。
呂宋助左衛門は伝説的な堺商人で、
安土桃山時代ルソン島に渡って貿易し、
巨万の富を得た人物です。
豊臣秀吉に貿易で手に入れた珍品を献上し、
その庇護を得て更に富を増やしますが、
贅沢を好んで華美な生活をしていた為、
慶長3年(1598)に石田三成の讒言により、
財産の没収処分が下されてしまいます。
しかし事前にこの情報を察知して、
財産を全て菩提寺の大安寺に寄進し、
ルソン島に逃亡を果たしました。
その後はカンボジアに渡ったとされ、
再び巨万の富を得たとされています。

港町

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