13代将軍徳川家定は病弱で実子も望めず、
次期将軍の継嗣確定が急務となり、
黒船来航の混乱に対処できる将軍として、
一橋家の徳川慶喜を擁立する一橋派と、
紀州藩13代徳川慶福を推す南紀派が争い、
慶福が継嗣となって14代将軍となります。
これにより5代徳川吉宗と同様に、
墓所には13代慶福の墓はありません。
「慈承院殿剛健日純大居士」。
14代徳川茂承の墓。
西条藩9代松平頼学の六男として生まれ、
慶福の将軍就任に伴い紀州藩主になります。
第一次長州征伐で征長総督となりますが、
将軍台慮で前尾張藩藩主徳川慶勝に変更。
茂承は先鋒を務めたいと嘆願しています。
第二次長州征伐では御先手総督を命じられ、
前回の件もあってこれを固辞しますが、
結局は拝命して安藤直裕を名代として派遣。
同じく御附家老水野忠幹も出陣し、
幕軍の中で鬼水野と長州勢に恐れられ、
紀州藩の面目を保っています。
鳥羽伏見の戦いでは幕軍が領内に敗走。
これにより討伐対象となりますが、
藩兵提供と15万両の献金で許されました。
維新後は藩知事を経て廃藩置県で免職。
旧士族支援の為に徳義社を設立しています。
「樹徳院殿(賢)城高節大居士」。
※(賢)は正確には臤に虎。
15代当主徳川頼倫の墓。
田安徳川家8代徳川慶頼の六男で、
紀州徳川侯爵家当主徳川茂承の養子。
私設図書館「南葵文庫」や、
「南葵育英会」を創設。
博物学者南方熊楠の支援者でもあります。
この墓の隣に以降の累代墓がありました。
初代徳川頼宣の墓より石段を下りると、
エントランス的な感じになっており、
こちらが正規の入口だろうとわかります。
南側には7代正室及び継室、
12代正室の墓があります。
高石垣で厳重な造りの墓所。
彼女達は宮家および公家の出身です。
墓所を出て寺域に戻る。
「徳川家御霊屋」。
歴代藩主及び正室の位牌を安置。
残念ながら非公開。
初の徳川家墓所への訪問。
つい先日に加賀藩前田家墓所を訪問し、
その巨大さに圧倒された後でしたので、
それ程は驚きませんでしたが、
最大規模の大名墓所は間違いありません。
また同じ墓地で墓石の形がかなり違うとか、
前期藩主の墓石には何も書いていないなど、
面白いな~と思いました。
①/②/③
■関連記事■
・和歌山県和歌山市 和歌山城
紀州徳川家の居城跡。
・和歌山県和歌山市 岡公園
和歌山城の隣にある記念碑公園。