和歌山県海南市 長保寺(紀州徳川家墓所)①

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徳川将軍家は宗家の後嗣が絶えた時に備え、
尾張徳川家紀州徳川家を創始し、
後に水戸徳川家を加えて御三家とします。
宗家が絶えた際には養子を迎える事となっており、
実際に7代将軍徳川家継が早逝して宗家は断絶し、
紀州藩5代藩主徳川吉宗が将軍に迎えられました。

紀州徳川家は徳川家康の十男徳川頼宣を藩祖とし、
紀伊国および伊勢国の一部55万5千石を領し、
御三家で唯一将軍を輩出しています。
藩祖頼宣は2歳にして水戸藩20万石の藩主となり、
元服後に駿府藩50万石に加増転封となりました。
その後、紀州藩の浅野長晟広島藩に転封となり、
代わって頼宣が紀州藩に入封します。

長保寺一条天皇の勅願により創建された寺院で、
頼宣は紀州に入封すると長保寺を菩提寺に定め、
以後歴代藩主の廟所となりました。

大門」。
長保寺には国宝建築物が3つあり、
この大門もそのうちのひとつ。
南北朝時代の建造で三間一戸の楼門。
両脇には仁王像が安置されており、
これは鎌倉時代に造られたものという。


本堂」。
大門をくぐって石段を登った正面にある本堂
こちらも国宝で、鎌倉時代末期の建立です。


多宝塔」。
鎌倉時代後期建立のものでこちらも国宝。

長保寺は殆ど同時期の門、本堂、塔が揃って残り、
中世の伽藍としての好例であるようです。

さて、本題の紀州徳川家の廟所へ。

本堂と多宝塔の間から廟所へ。
こちらからが順路となっていますが、
入口は正門ではない模様。


紀州徳川家墓所」。
歴代藩主の墓は代ごとに並んでいませんので、
参拝した順ではなく初代より紹介します。


初代徳川頼宣の墓」。
大名墓としては非常に珍しい無縫塔型の墓石。
※無縫塔は僧侶の墓が多い。
戒名没年も何も刻まれておらず、
案内板が無ければ誰の墓かわかりません。
家康は頼宣を非常に可愛がっていたようで、
その晩年において最後まで手元に置き、
自ら薫陶を与えて育てたという。
紀州藩主として47年の長期政権を担い、
藩政を安定させて基礎を作り上げました。


二代徳川光貞の墓」。
2代藩主徳川光貞の墓は方形ですが、
こちらも戒名、享年等は刻まれていません。
父頼宣が長寿であった為、
藩主就任は41歳になってからでしたが、
善政を布いて31年の治世を行いました。


三代徳川綱教の墓」。
3代藩主徳川綱教の墓。
光貞の隠居によって藩主となりますが、
僅か7年で隠居の光貞に先立って死去。


四代徳川頼職の墓」。
4代藩主徳川頼職の墓。
高森藩を立藩して藩主となっていましたが、
兄の3代綱教が病に倒れた為に継嗣となり、
その死によって家督を継ぎました。
しかし同年に父の光貞が危篤となり、
早馬で江戸から和歌山に帰ったのが災いし、
頼職も病に倒れて急死してしまいます。

綱教、光貞、頼職と同年で相次いで死去し、
1年のうちに3度も葬儀を行うことになり、
紀州藩の財政は悪化の一途を辿りました。
跡を継いだ5代徳川吉宗倹約令を布き、
財政を好転させていますが、
7代将軍徳川家継が8歳で継嗣無く死去し、
吉宗は宗家を継ぐことになります。

つづく。
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