徳川将軍家は宗家の後嗣が絶えた時に備え、
尾張徳川家、紀州徳川家を創始し、
後に水戸徳川家を加えて御三家とします。
宗家が絶えると後嗣を出す事となっており、
実際に7代徳川家継の早逝で宗家は断絶し、
紀州藩5代徳川吉宗が迎えられました。
紀州徳川家は徳川頼宣を藩祖とし、
※徳川家康十男。
紀伊国及び伊勢国一部55万5000石を所領。
御三家で唯一将軍を輩出しています。
頼宣は2歳で水戸藩20万石の藩主となり、
元服後に駿府藩50万石に加増。
後に紀州藩の浅野長晟が転封されると、
代わって頼宣が紀州藩に入封します。
長保寺は一条天皇の勅願で創建された寺院。
頼宣は長保寺を菩提寺に定め、
以後は歴代藩主の廟所となりました。
「大門」。
長保寺には国宝建築物が3つあり、
この大門もそのうちのひとつ。
南北朝時代の建造で三間一戸の楼門。
両脇には仁王像が安置されており、
これは鎌倉時代に造られたものという。
「本堂」。
石段を登った正面にある本堂。
こちらも国宝で鎌倉時代末期の建立です。
「多宝塔」。
鎌倉時代後期建立のものでこちらも国宝。
長保寺は同時期の門、本堂、塔が残り、
中世の伽藍としての好例であるようです。
本題の紀州徳川家の廟所へ。
本堂と多宝塔の間から廟所へ。
こちらからが順路となっていますが、
入口は正門ではない模様。
「紀州徳川家墓所」。
歴代の墓は代ごとに並んでいませんので、
参拝した順ではなく初代より紹介します。
「初代徳川頼宣の墓」。
大名墓としては珍しい無縫塔型の墓石。
※無縫塔は僧侶の墓が多い。
戒名も没年も何も刻まれておらず、
案内板が無ければ誰の墓かわかりません。
家康は頼宣を非常に可愛がっていたようで、
その晩年において最後まで手元に置き、
自ら薫陶を与えて育てたという。
紀州藩主として47年の長期政権を担い、
藩政を安定させて基礎を作り上げました。
「二代徳川光貞の墓」。
2代藩主徳川光貞の墓は方形ですが、
こちらも戒名、享年等は刻まれていません。
父頼宣が長寿であった為、
藩主就任は41歳になってからでしたが、
善政を布いて31年の治世を行いました。
「三代徳川綱教の墓」。
3代藩主徳川綱教の墓。
光貞の隠居によって藩主となりますが、
僅か7年で隠居の光貞に先立って死去。
「四代徳川頼職の墓」。
4代藩主徳川頼職の墓。
高森藩を立藩して藩主となっていましたが、
兄の3代綱教が病に倒れた為に継嗣となり、
その死によって家督を継ぎました。
しかし同年に父の光貞が危篤となり、
早馬で江戸から和歌山に帰ったのが災いし、
頼職も病に倒れて急死してしまいます。
綱教、光貞、頼職と同年で相次いで死去し、
1年のうちに3度も葬儀を行うことになり、
紀州藩の財政は悪化の一途を辿りました。
跡を継いだ5代徳川吉宗は倹約令を布き、
財政を好転させていますが、
7代将軍徳川家継が8歳で継嗣無く死去し、
吉宗は宗家を継ぐことになります。
つづく。
①/②/③
■関連記事■
・和歌山県和歌山市 和歌山城
紀州徳川家の居城跡。
・和歌山県和歌山市 岡公園
和歌山城の隣にある記念碑公園。