和歌山県海南市 長保寺(紀州徳川家墓所)③

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つづき。

13代将軍徳川家定は病弱で実子も望めず、
次期将軍の継嗣確定が急務となり、
黒船来航以後の混乱に対処できる将軍として、
水戸徳川家出身の一橋慶喜を擁立する一橋派と、
血統を重んじる紀州藩13代徳川慶福を推す南紀派が争い、
最終的に慶福が継嗣となって14代将軍となります。

これにより同じく将軍となった5代徳川吉宗と同様に、
長保寺の墓所には13代慶福の墓はありません。


慈承院殿剛健日純大居士」。
14代徳川茂承の墓。
西条藩9代松平頼学の六男として生まれ、
慶福の将軍就任に伴い紀州藩主になります。
第一次長州征伐では征長総督に任命されますが
将軍の台慮であるとして前尾張藩藩主徳川慶勝に変更。
茂承はせめて先鋒を務めたいと嘆願しています。
第二次長州征伐では御先手総督を命じられますが、
前回の件もあってこれを固辞しますが、
結局は拝命して御附家老安藤直裕を名代として派遣。
同じく御附家老水野忠幹も出陣し、
各地で敗れる幕軍の中で鬼水野長州勢に恐れられ、
紀州藩の面目を保っています。
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは幕軍が領内に敗走。
これによって新政府軍の討伐対象となりますが、
弁明して藩兵の提供と15万両の献金で許されました。
維新後、藩知事を経て廃藩置県で免職。
旧紀州藩士族の支援の為に徳義社を設立しています。


樹徳院殿(賢)城高節大居士」。
※(賢)は正確には臤に虎。
15代当主徳川頼倫の墓。
田安徳川家8代徳川慶頼の六男として生まれ、
紀州徳川侯爵家当主徳川茂承の養子となりました。
私設図書館「南葵文庫」や「南葵育英会」を創設。
博物学者南方熊楠の支援者でもあります。
この墓の隣に以降の当主の累代墓がありました。


初代徳川頼宣の墓より石段を下りると、
エントランス的な感じになっており、
本来はこちらが正規の入口だろうとわかります。


南側には7代正室及び継室、12代正室の墓があります。
高石垣で厳重な造りの墓所。
彼女達は宮家および公家の出身です。

墓所を出て寺域に戻る。

徳川家御霊屋」。
紀州藩歴代藩主及び正室の位牌が安置されています。
残念ながら非公開。

初の徳川家墓所への訪問。
つい先日に加賀藩前田家墓所を訪問し、
その巨大さに圧倒された後でしたので、
それ程は驚きませんでしたが、
最大規模の大名墓所であることは間違いありません。
また同じ墓地で墓石の形がかなり違うとか、
前期の藩主の墓石には何も書いていないなど、
面白いな~と思いました。

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