紀州藩5代徳川吉宗が8代将軍となると、
支藩の西条藩より徳川宗直が迎えられ、
宗直が6代藩主となります。
※吉宗は将軍となったので当たり前ですが、
5代吉宗の墓はありません。
「六代徳川宗直の墓」。
初代徳川頼宣と同じく無縫塔型の墓石。
西条藩藩主松平頼純の五男として生まれ、
頼純は世子であった松平頼雄を廃嫡させて、
代わって宗直を世子としています。
※宗直は頼純の寵愛する側室の子。
頼純の死去で西条藩主となりましたが、
吉宗が宗家を継ぐ事となり、
代わって紀州藩主となりました。
治世では享保の大飢饉で大きな被害を受け、
幕府より公金2万両を拝借しています。
「菩提心院」。
7代徳川宗将の墓。
無縫塔型ですが戒名が刻まれています。
6代宗直の次男で父の死により家督を相続。
7年の治世で特筆できる政策はありません。
「観自在院殿前黄門三品太真 尊儀」。
8代徳川重倫の墓。
宝塔型の墓石で戒名も刻まれています。
7代宗将の次男で父の死により家督を相続。
素行が悪く度々江戸城登城停止を命じられ、
挙句に強制隠居させられました。
その後は54年の隠居生活を送っています。
「香嚴院」。
9代徳川治貞の墓。
宝塔型から板状に戻っているようですが、
8代重倫は長寿で治貞の方が先に死去し、
治倫の墓以降が宝塔型となったようです。
6代宗直の次男で西条藩主でしたが、
重倫の強制隠居によって家督を相続。
倹約令などの藩政改革を行い、
紀州藩に10万両の蓄えを築いたとされ、
名君とうたわれ紀州の麒麟と称されました。
「舜恭院殿一品前亜相
大光正受源恭公 尊儀」。
10代徳川治宝の墓。
強制隠居させられた8代重倫の次男で、
9代治貞の養子となって家督を継ぎます。
藩校を充実させて子弟への学問を奨励し、
史書の編纂させたり文化や芸術などを支援。
自らも茶道、作陶、日本画など多趣味で、
[数奇の殿様]と称されました。
領内の大規模一揆の責任で隠居しますが、
隠居後も多大な影響力を持っています。
「顕龍院殿二品前亜相恭譲圓輝 尊儀」。
11代徳川斉順の墓。
11代将軍徳川家斉の七男として生まれ、
治宝の養子となって家督を相続。
治宝は隠居後も実権を持ち続け、
藩政にはあまり関わらなかったとされます。
「憲章院殿二品前亜相至徳道光 尊儀」。
12代徳川斉彊の墓。
兄斉順の死により紀州藩主となりますが、
変わらず隠居の治宝が実権を握り、
藩主就任後僅か2年で病死しています。
13代は11代斉順の次男徳川慶福。
後の14代将軍徳川家茂でした。
つづく。
①/②/③
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紀州徳川家の居城跡。
・和歌山県和歌山市 岡公園
和歌山城の隣にある記念碑公園。