高野山奥の院墓地/豊臣秀吉墓所

奥の院墓地にある豊臣秀吉の墓所。
天下人らしく広い敷地を有します。


豊臣秀吉墓所」。
中央後方に秀吉の供養塔があり、
その手前に8基の供養塔が並びんでおり、
右側にも2基の供養塔が建てられていますが、
全ては写真に納まりきれませんでした。
左側より8基は、
被葬者不明の宝篋印塔
秀吉の姉(瑞龍院)の五輪塔、
法性院殿(不明の女性)の五輪塔、
豊臣秀長正室慈雲院殿の五輪塔、
豊臣秀長の五輪塔、
秀吉の母大政所の五輪塔、
秀吉養子豪姫の五輪塔。
右側2基は、
秀吉の長男鶴松の五輪塔、
秀吉の側室淀殿の五輪塔。


豊臣太閤秀吉公之墓」。
太閤豊臣秀吉の墓。
幼少期には諸説ありますが、
木下藤吉郎秀吉として織田信長に仕え、
瞬く間に出世して羽柴秀吉に改名。
織田家の覇業に従い毛利家と戦いますが、
その最中に本能寺の変で信長が討たれ、
この報を聞いて毛利家と和睦し、
僅か10日で全軍を京都に戻して、
信長を討った明智光秀を撃破しました。
清須会議では光秀を討った功績により、
会議の主導権を握って勢力を拡大。
織田家の宿老だった柴田勝家と対立し、
賤ヶ岳の戦いでこれを破り、
徳川家康とも小牧長久手で戦い、
引き分けながらも優位に交渉を行います。
その後は紀州征伐四国征伐に成功し、
朝廷より関白宣下を受け、
豊臣姓」を賜り太政大臣にも就任。
更に九州征伐小田原征伐を行い、
全国を平定して天下一統を果たしました。
甥の豊臣秀次関白職を譲りますが、
秀吉は太閤として実権を握り続け、
大陸への進出を決意して朝鮮に出兵。
日本軍は平壌まで占領するに至りますが、
の援軍が到着して興和が成立しています。
側室の淀殿が実子豊臣秀頼を産んだ為、
後継者であった秀次の立場が微妙となり、
謀反の疑いで秀次は切腹。
その遺児や側室、侍女らも処刑されました。
サン・フェリペ号事件が発生すると、
キリスト教を危険視して禁教令を公布。
フランシスコ会関係者26人を捕縛し、
長崎に送って磔刑に処しています。
慶長2年(1597)には再度朝鮮に出兵し、
日本軍は明・朝鮮軍を打ち破りますが、
その最中の慶長3年(1598)に死去。
家督は実子豊臣秀頼が継いでいます。

この豊臣秀吉墓所を訪問した後、
カメラバッテリーが切れてしまい、
※正確には携帯のバッテリー切れ。
以後の撮影が出来なくなりました。
駐車場まで戻って充電するには、
余りにも時間が掛かりすぎるので、
残念ですが今回はここで断念しました。
今度はいつになるかわかりませんが、
どうにかまた訪問したいですね。

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