聖徳太子の墓所として知られる叡福寺は、
その創建年代に諸説ありますが、
太子の墓守りの住んだ堂が始まりとされ、
歴代天皇や時の権力者に重んじられました。
空海、良忍、親鸞、日蓮、一遍など、
各宗派の開祖も参拝したという。
天正2年(1574)の兵火で全ての堂塔を焼失。
江戸時代に入って復興しています。
幕府は復興を丹南藩6代高木正陳に命じ、
正陳は多くの御堂を寄進しました。
「南大門」。
叡福寺の正門。慶長年間に再建されますが、
昭和33年に再々建されています。
左右に金剛力士像を安置。
「金堂(本堂)」。
本尊は如意輪観音坐像。
享保17年(1732)の再建です。
大阪府指定有形文化財。
「多宝塔」。
承応元年(1652)再建の多宝塔。
釈迦、文殊、普賢の三尊像、
金剛界の大日如来が安置され、
4本の柱に四天王が描かれているという。
国指定重要文化財。
「二天門」。
元禄元年(1688)に高木正陳が建立。
回廊と連なり鐘楼堂と繋がっています。
こちらより聖徳太子廟へ。
「聖徳太子御廟(磯長墓)」。
巨大な円墳に横穴式石室が設置され、
聖徳太子と母である穴穂部間人皇女、
妃の膳部大郎女を合葬し、
三骨一廟と呼ばれています。
墳丘の周囲は結界石と呼ばれる石の列で、
二重に囲まれて聖域となっており、
宮内庁の管轄となっています。
聖徳太子は31代用明天皇の第二皇子で、
叔母にあたる推古天皇の皇太子となり、
重臣蘇我馬子と共に政務にあたり、
冠位十二階や十七条憲法を制定し、
天皇による中央集権国家体制を確立。
また遣隋使を派遣して大陸の文化を学ばせ、
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云・・」
という有名な文章を隋の煬帝に送り、
日本の独立性を示して冊封を拒否しました。
仏教を広める為に多くの寺院を建立し、
四天王寺や法隆寺を建てています。
聖徳太子の名は後世の尊称で、
厩戸皇子と呼ばれていたという。
太子は皇位継承権を有していましたが、
推古天皇より先に薨御した為、
天皇に即位する事はありませんでした。
聖徳太子御廟に沿って裏手へ。
「高木家墓所」。
聖徳太子御廟の真裏に並ぶ高木家の墓。
6代高木正陳は太子廟を整備した縁で、
初代高木正次以下、歴代の五輪塔を建立。
正陳以降の藩主もこれに倣い、
11代高木正明まで続きました。
ここには藩主とその正室26基の五輪塔が、
歴代順に整然と並んでいます。
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