高野山奥の院墓地/広島藩浅野家墓所

奥の院墓地にある広島藩浅野家の墓所。
浅野家は土岐光衡の次男浅野光時を祖とし、
尾張国丹羽郡浅野荘を本拠としました。
13代当主浅野長勝織田信長に仕え、
早くから羽柴秀吉の配下となっており、
長勝は杉原定利の娘おねややを養女とし、
安井重継の子をややの婿養子として貰い、
これが次代当主浅野長政となります。
おねは後に秀吉に嫁いだ為、
長政は秀吉と義理の兄弟となっており、
秀吉の出世と共に地位を上げました。
秀吉が天下統一を果たすと、
五奉行の筆頭として豊臣政権を支え、
文禄の役で長政は軍監として従軍し、
長男浅野幸長も戦功を挙げています。
この功で幸長に16万石が与えられ、
長政にも5万5000石が与えられました。
関ケ原の戦いでは東軍に与しており、
その功で幸長は和歌山37万6000石を拝領。
後に福島正則が改易された事により、
次代長晟が広島藩に加増転封されて、
42万6000石で廃藩置県まで続きました。


広島藩浅野家墓所」。
参道より低い位置にある浅野家の墓所。
鳥居扁額は「清光院、慶雲院 、傳正院、
自得院
」と刻まれています。


右側から、
清光院殿前紀州太守春翁宗雲大居士」、
傳正院殿功山道忠大居士」、
自得院殿洞雲宗仙大居士」。
15代当主(和歌山藩主) 浅野幸長の墓、
14代当主(真壁藩主)浅野長政の墓、
16代当主(広島藩初代)浅野長晟の墓。
長政は秀吉の親類で最古参の立場から、
豊臣政権の政権中枢にいましたが、
慶長4年(1599)に前田利長らと共に、
家康暗殺を計画した疑いにより失脚。
幸長は石田三成とは犬猿の仲だった為、
浅野家は家康を支持する事なります。
関ケ原の戦いの後は和歌山藩を立藩し、
慶長18年(1613)に38歳で死去。
家督は弟の浅野長晟が相続しており、
大坂の陣に出陣して戦功を挙げ、
福島正則の改易後に広島藩に移りました。
寛永9年(1632)、死去。

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