広島県広島市 浅野家浅野山墓地

広島藩浅野家の藩祖は浅野長政
※浅野家としては14代。
長政は豊臣政権五奉行に抜擢され、
豊臣秀吉に絶大な信頼を得ていますが、
徳川家康とも非常に親しい間柄で、
度々囲碁をする仲であったとされます。
更に石田三成とは不仲だったようで、
関ヶ原の戦いでは東軍に与しており、
家督を相続していた嫡男浅野幸長は、
その功で和歌山藩37万石に加増されました。
※長政は江戸城留守居役を務め、
 隠居料で真壁藩5万石を与えられました。
 この真壁藩は三男浅野長重が継ぎ、
 笠間藩を経て赤穂藩に移封。
 後の赤穂事件へ繋がっています。

後に福島正則の改易に伴い、
幸長は広島藩に加増転封することとなり、
以後は浅野家が広島藩を治めます。

広島は原爆を落とされた都市であり、
広島城は原爆で破壊された唯一の城塞。
中心部の被害は甚大を極め、
その死者は約14万人ともされてますが、
同時に多くの史跡も失われています。
浅野家歴代墓所であった菩提寺の国泰寺も、
爆心地から約500mの位置にあった為、
全ての伽羅が全壊全焼しており、
寺地を大茶臼山西麓に移転。
これに伴い浅野家墓所も移転しており、
初、2~4、6、8~11代藩主が、
牛田町浅野山(神田山)に改葬され、
5、7、12代藩主が、
山手町新庄山に改葬されています。

今回はそのひとつ浅野山を訪問。
事前の情報で[非公開]と知っていますが、
当ブログは現地確認をモットーとしますので、
その入口だけでも拝みたいと思います。


日通寺」。
浅野山の南西山麗にある法華宗寺院。
2代藩主浅野光晟夫人満姫の願いにより、
元禄年間に建立された寺院で、
満姫の法名英心日妙と、
3代藩主浅野綱晟の法名徹性日通から、
英心山日通寺と称しています。
藩内の法華宗觸頭として隆盛しますが、
明治以降は一時衰退したという。
浅野山に墓所が移された際に、
その管理を任されているとのこと。


浅野山墓地入口
事前の情報どおり非公開。
この辺りは子孫の意向によるものですので、
一般の我々がどうこうは言えません。
整備費用駐車場の設置等、
色々と大人の事情もありますので、
公開したくても出来ないのかもです。


史蹟 浅野長晟 墓」。
日通寺墓地にあります。
[墓]とは刻まれていますが、
勿論これは墓ではなく標柱です。
たぶん墓所内の浅野長晟の墓の前か、
墓所入口に設置していたものでしょう。
長晟は幸長を初代とする藩主家2代当主。
広島藩でいえば初代藩主。
浅野家としては16代当主にあたります。
浅野長政の次男として生まれ、
浅野家の家督を相続した嫡男幸長が、
嗣子が無かった為に養子となり、
幸長の死去に伴い家督を相続しました。
徳川家康の三女振姫を娶っており、
振姫との間に2代藩主となる光晟を儲け、
現在も浅野家は家康の血を継いでいます。

さて、墓所は情報どおり非公開ですが、
なんでも裏手の浅野山緑地は遊歩道で、
そこから墓所が覗き見れるとのこと。
ということで浅野山緑地へ。

藩主の墓と思われる五輪塔
誰の墓かはわかりませんが、
流石に立派なお墓です。


こちらはドーム型となっており、
その大きさや形状から、
一族の合葬墓ではないかと思われます。


方柱型の墓石は明治期のものか、
現在使用されている墓石でしょう。


遠すぎてよくわかりませんが、
たぶんこちらも藩主の墓と思われます。

上から覗ける範囲は以上。
少しでも見れたので良しとしましょう。
上記したように、
初、2~4、6、8~11代の墓がある筈ですが、
確認出来ないので本当かどうか不明。
たぶん間違いないとは思いますが、
見える範囲ではわかりませんでした。

■関連記事■
広島県広島市 国泰寺跡
 かつて墓所が置かれていた寺院跡。
広島県広島市 広島城
 広島藩浅野家の居城跡。
広島県広島市 浅野家新庄山墓地
 もうひとつの広島藩浅野家墓所。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です