国泰寺は安国寺恵瓊が創建した寺院で、
福島正則の時代に国泰寺と改められ、
浅野家が広島に入封してからは、
浅野家の菩提所となって栄えました。
長州征伐では幕軍の総督府が置かれ、
長州藩の三家老の首実験が行われており、
政事戦の舞台となった場所でした。
残念ながら原爆によって焼失してしまい、
国泰寺は市街の北西に位置する己斐に移転。
現在の跡地は開発が進んで面影はありません。
「ANAクラウンプラザホテル」。
国泰寺跡はANAクラウンプラザホテルの一角。
爆心地から500mしか離れていなかった為、
本堂を含む全ての建物が全焼全壊しています。
藩主浅野家の墓所も国泰寺にありましたが、
戦後に神田山と新庄山に改葬。
双方の墓所共に非公開とのこと。
「旧国泰寺愛宕池」。
ホテルの前にある池(水は張っていない)。
旧国泰寺の面影を残す唯一の遺構。
とはいえコンクリートで整備されています。
境内社の愛宕社が傍にあったことから、
愛宕池と呼ばれていました。
「白神社」。
国泰寺の隣にあった白神社。
こちらは移転していません。
このあたりは海であったようで、
船がしばしば岩礁に激突していたという。
そこで岩礁に白い紙で目印を作り、
船の激突を防いだとされます。
後に祠が建てられ白神と称して祀られ、
広島の総氏神として毛利、福島時代より、
尊崇されたとの事。
ここも原爆によって全壊全焼しており、
国泰寺と違い同地に再建されました。
第1次長州征伐では幕府軍の総督府となり、
総督には尾張藩主徳川慶恕(慶勝)が任命され、
附家老成瀬正肥が名代となっています。
切腹した長州藩三家老の首が、
岩国領主吉川経幹によってもたらされ、
ここで首実検も行われました。
翌年には永井尚志らが宍戸備後助に訊問。
永井は訊問結果を報告する為に大坂へ帰り、
長州藩への最終処分が決定すると、
老中の小笠原長行がやってきます。
小笠原は強硬方針であたり宍戸らを拘束。
調停役の広島藩の恨みを買った為に、
身の危険を感じて小倉に移りました。
開戦までの政事戦が長期にわたっており、
それが武備を調える時間となったわけで、
これが色々とドラマがあって面白いのですが、
別の機会に詳しく記事にしたいと思います。
残念なのはその舞台となった国泰寺が、
無くなっていることですね。
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