喜入旧麓にある喜入肝付家の菩提寺玉繁寺跡。
元々は加治木にあったようですが、
肝付家の移封に伴って移転しています。
「喜入肝付家墓所」。
玉繁寺跡にある喜入肝付家の墓所。
県内他寺と同様に廃仏毀釈で廃寺となり、
喜入肝付家の墓所のみが残されました。
「〇〇了源居士」。
3代当主肝付兼武の墓。
2代当主肝付兼篤の子として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しています。
寛永12年(1635)、死去。
「肝付兼屋墓」。
4代当主肝付兼屋の墓。
※碑銘読めず。
3代肝付兼武の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
寛永15年(1638)の島原の乱に出陣しています。
延宝3年(1675)、死去。
「了聞院殿」。
5代当主肝付久兼の墓。
3代肝付兼屋の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
宝永4(1707)に病を理由に隠居しており、
宝永6年に死去しました。
「吹晴院殿」。
6代当主肝付兼柄の墓。
5代肝付久兼の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しています。
享保3年(1718)、死去。
「天慶院殿久榮宗顯大居士」。
7代当主肝付兼逵の墓。
6代肝付兼柄の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
勘定奉行や寺社奉行を務めています。
元文4年(1739)、死去。
「覺了院殿」。
8代当主肝付兼伯の墓。
7代兼逵の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
火消奉行や寺社奉行を務めており、
徳川吉宗薨去の弔問使も務めました。
宝暦11年(1761)、死去。
「芳山治遊大居士」。
9代当主肝付兼満の墓。
8代肝付兼伯の子に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
火消奉行等を務めた他に、
喜入浜の石垣普請を行っています。
寛政6年(1794)に隠居しており、
文化元年(1804)に死去しました。
「松寒院殿覺雲見海大居士」。
10代当主肝付兼般の墓。
9代肝付兼満の子として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
文化14年(1817)に隠居し、
文政3年(1820)に死去しています。
「山翔建雄命(右奥)」、
「和魂兼両〇〇(左手前)」。
11代当主肝付兼善の墓と、
12代当主肝付兼両の墓。
11代兼善は10代肝付兼般の嫡男で、
父の隠居に伴い家督を相続。
弘化2年(1845)に隠居して家督を譲り、
明治9年に死去しています。
12代兼両は11代兼善の嫡男で、
父の隠居に伴い家督を相続。
薩英戦争では桜島で砲撃を担当しており、
英館パーシュース号に損傷を与えて、
戦線離脱させる戦果を挙げました。
明治17年、死去。
ちなみに11代兼善は小松帯刀清廉の実父で、
12代兼両は実兄です。
喜入肝付家は代々子沢山の家系で、
他家に多くの養子を出している家。
11代兼善も七男を儲けており、
小松帯刀はその四男でした。
「大直月豊照姫命」。
11代兼善の継々室の墓。
彼女の名前は不明のようですが、
小松帯刀の実母です。
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小松帯刀清廉の墓所。