西郷家の墓所は南林寺にあった様で、
南林寺が廃仏毀釈で廃寺となった為、
墓地だけがその跡地に残っていましたが、
大正期の都市計画によって移転が決まり、
現在地に23基の墓石が改葬されました。
当時永野金山の鉱業館長を務め、
薬師町に引っ越していた西郷菊次郎が、
移転に大きく関わったとされています。
「西郷家墓地」。
鹿児島市常盤2丁目にある西郷家墓地。
住宅道路沿いにあって駐車場は無し。
ここに西郷隆盛の家族らの墓があります。
記事としてややこしくなる為、
西郷隆盛を以下[吉之助]とします。
「西壽遊山居士」。
吉之助の祖父西郷龍衛門隆充の墓。
隆充は西郷吉兵衛(諱は不明)の次男で、
薩摩藩士村山家の養子となりますが、
兄が江戸で罪を犯した為に切腹した為、
西郷家は一時士籍を剥奪されますが、
後に村山家を離籍した龍衛門が再興。
御台所御番等を務めていたようですが、
弘化4年(1847)に隠居しており、
嘉永5年に死去しています。
「壽操貞延大姉」。
吉之助の祖母四本氏の墓。
文久2年に死去しています。
「自覚院祖栄忠道居士(右)」、
「圓眞霜鏡大姉(左)」。
吉之助の父西郷吉兵衛隆盛の墓と、
吉之助の母満佐の墓。
※通称の吉兵衛は祖父と同じであり、
諱の隆盛は本来吉兵衛のもの。
吉兵衛は龍衛門の長男として生まれ、
弘化4年に父の隠居に伴い家督を相続。
勘定方小頭等を務めていたようですが、
父の死去の僅か2ヶ月後に死去しており、
翌嘉永6年に長男吉之助が家督を相続。
満佐は椎原家の出身で良妻であったとされ、
吉兵衛との間に四男三女を儲けましたが、
夫の死の2ヶ月後に病死しています。
「西郷吉二郎隆廣之墓」。
吉兵衛次男西郷吉二郎の墓。
兄吉之助は藩外に出ている事が多く、
この為に西郷家を取り仕切っていたとされ、
兄の名代として藩への対応もしていました。
戊辰戦争では北越戦争に従軍し、
五十嵐川付近の戦闘で負傷。
その傷が悪化して戦病死しており、
金谷山官軍墓地に埋葬されていますが、
遺髪が届けられてここに埋葬されています。
「西郷家之墓」。
吉之助の庶長子西郷菊次郎及び、
菊次郎の子孫らの墓。
拓殖大学理事長だった三男西郷隆秀や、
剛腕投手だった六男西郷隼も入っています。
菊次郎は吉之助の島妻愛加那の子で、
奄美大島で生まれ育ちました。
9歳で西郷家に引き取られており、
明治5年に12歳でアメリカへ留学。
帰国後は鹿児島に戻っており、
西南戦争が勃発するとこれに従軍し、
高瀬の戦いで右脚を負傷してしまいます。
この傷が悪化して膝下切断となり、
延岡で西郷従道へ投降。
戦後は外務省を経て再び米国へ留学し、
帰国後は宮内庁に出仕します。
その後に台湾で地方長官を務めた後、
京都市長に就任して7年後に辞職。
鹿児島で永野金山鉱業長を務めた他、
地域への貢献に尽くしました。
昭和3年、死去。
菊次郎は嫡流ではありませんでしたが、
彼のおかげでこれらの墓が残され、
現在も整備されるに至っているようです。
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