明治10年に起こった西南戦争は、
西郷隆盛以下西郷軍の全滅で終結。
戦死した西郷軍将兵の遺体は、
鹿児島各地に仮埋葬されています。
その後の明治12年に有志らによって、
現在地に改葬。
後に九州各地で埋葬された遺骨も集められ、
これが南洲墓地となっています。
「南洲墓地」。
2023名の将兵が葬られている南洲墓地。
西郷以下将兵がそのまま墓石となったような、
非常に壮観な雰囲気となっています。
前にここを訪問したのは9年前。
当ブログを始めたばかりの時でした。
鹿児島県鹿児島市 城山~南洲墓地
居並ぶ墓石全ての人物を調べあげたいのですが、
それもなかなか難しいので、
今回は少し日にちを使用して、
西郷の墓のある上段最前列の墓碑を、
ひとつひとつ紹介していこうと思います。
「西郷隆盛墓」。
新政大総督 征伐大元帥西郷隆盛の墓。
※肩書は西南戦争時のものとします。
西郷は城下士西郷吉兵衛の長男で
幼少時に喧嘩の仲裁で負傷した為、
刀が握れなくなっていたという。
元服後は郡奉行配下で役人を務め、
嘉永5年に父の死去に伴い家督を相続。
藩主島津斉彬の御庭方役を務め、
斉彬と共に国事に奔走していますが、
安政の大獄により斉彬は失脚し、
その直後に急死してしまいます。
西郷は斉彬の遺志を継ぐ決意をし、
幕府に追われる勤皇僧月照を匿い、
国許の薩摩に帰国していますが、
藩政府は月照の保護を拒否。
西郷は月照と共に海に身を投げますが、
助けられて西郷だけが生き残りました。
蘇生した西郷は奄美大島に潜居。
その後に呼び戻されていますが、
国父島津久光の不興を買ってしまい、
徳之島へ遠島されています。
更に沖永良部島へ島替えとなり、
牢込め等の過酷な状況に置かれ、
フィラリアにも感染していますが、
島民達の協力で次第に環境は改善し、
彼らに学問を教えたりしました。
そして再び戻されると京都に派遣され、
軍賦役に任命されて藩兵の指揮をとり、
禁門の変で長州藩を撃破。
その後の長州征伐では緩和策で臨み、
密かに薩長同盟を締結して長州を支援。
幕長戦争で幕府軍が敗退すると、
薩摩藩は討幕へと舵をきり、
大政奉還や王政復古を経て、
鳥羽伏見の戦いで新政府が勝利すると、
東征大総督府下参謀として江戸に進軍。
江戸城無血開城を実現させ、
戊辰戦争では北陸方面に赴き、
箱館戦争にも援軍に向っています。
戦後は鹿児島藩大参事等を務めた後、
新政府に出仕して参議に就任。
岩倉使節団渡米後は留守政府を預かり、
その後の征韓論争で辞職しました。
辞職後は鹿児島に帰郷しますが、
西郷を慕う多くの旧藩士も辞職した為、
私学校を設立して彼らや若者を統率。
自らは温泉や狩猟で余生を過ごしますが、
私学校生徒らの暴発により挙兵を決意し、
大軍を率いての上京を計画します。
軍の編成や訓練が行われた後、
陸路で北上が開始されて西南戦争が勃発。
九州各地で激戦を繰り返した後、
官軍に敗退して解軍を宣言し、
それでも従う多くの者達と共に、
鹿児島に戻って城山に立て籠もり、
最後の戦いで自刃しています。
「西郷小兵衛墓」。
西郷の墓の後ろにある西郷小兵衛の墓。
小兵衛は西郷の弟で吉兵衛の四男。
最も西郷に似ていたとされており、
西郷に大層可愛がられたという。
戊辰戦争で初陣を飾っており、
維新後は鹿児島に戻っていましたが、
西南戦争では第一大隊の小隊長を務め、
肥後国高瀬河南で戦死しています。
西郷は小兵衛の戦死の報に、
号泣したとされています。
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・鹿児島県鹿児島市 西郷蘇生の家
西郷が助けられ蘇生した民家が現存。