鹿児島県鹿児島市 南洲墓地/篠原国幹墓

南洲墓地にある篠原国幹の墓。


篠原國幹墓」。
一番大隊指揮長篠原国幹の墓。
※肩書は西南戦争時のものとします。
城下士篠原善兵衛の長男に生まれ、
藩校造士館和漢学を学んだ他、
国許で薬丸半左衛門薬丸示現流を、
和田源太兵衛常陸流を学び、
江戸で神道無念流を学びました。
やかて尊攘思想に惹かれるようになり、
有馬新七らの挙兵計画に参加しますが、
寺田屋騒動により謹慎。
放免後は薩英戦争に参加し、
その後は戊辰戦争に出陣しており、
卓越した指揮能力を発揮したという。
戦後は薩摩藩第二大隊の隊長に就任し、
廃藩後は陸軍大佐を経て陸軍少将となり、
近衛局にも出仕し近衛長官に就任。
篠原の演習を天覧した明治天皇は、
その指揮ぶりに感動したとされ、
演習場を習志野と命名したとされます。
篠原を見習うようにという意。
しかし征韓論争西郷隆盛が下野すると、
全ての職を辞して帰郷。
私学校が設立されるとその監督として、
青年らを育成しています。
後に政府西郷刺殺計画が疑われると、
篠原は大評議武装蜂起を主張。
出兵が決まると篠原は部隊編成を担当し、
一番大隊指揮長となりました。
熊本城強襲では背面攻撃を担当し、
高瀬の戦いでは中央隊となりますが、
何れの戦いも奮戦虚しく敗れており、
明治10年3月4日の吉次峠の戦いで、
赤裏の外套で指揮を執りますが、
狙撃されて戦死しています。

西南戦争も前半で戦死しており、
指揮能力を発揮出来ぬままでしたが、
篠原が戦争初期に離脱せず、
もう少し戦い続けていたとすれば、
西郷軍が勝利するかはわかりませんが、
結果は少し違っていたかもですね。

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