加治木島津家の歴代墓所は能仁寺跡。
能仁寺は隠居中の島津義弘が、
孫にあたる島津忠朗の発願で創設され、
後に加治木島津家の菩提寺となりました。
「加治木島津家墓所(能仁寺跡)」。
67基あるという燈籠が連なる墓所。
江戸時代の当主の墓は全て五輪塔で、
他の島津家に比べて非常に珍しい。
初代当主島津忠朗とその正室の墓は、
写真がボケてしまい無し。
いつの日か再訪した際に撮り直します。
忠朗は初代藩主島津忠恒の三男で、
幼少期は江戸で証人を務め、
帰国後に祖父島津義弘の隠居領を拝領し、
加治木島津家を創設。
以後45年間当主に在任しており、
加治木島津家の家政の基礎を造りました。
2代当主島津久薫の墓所は長年寺跡。
「報國院殿梁山元桂大居士(右)」、
「徳温院殿〇山淨玉大姉(左)」。
3代当主島津久季の墓と、
久徴正室徳温院の墓。
薩摩藩世継島津綱久の次男に生まれ、
加治木家2代久薫の養子となり、
その死後に家督を相続しました。
和歌が堪能であったと伝えられており、
36年の当主在任の後に死去しています。
4代当主島津久門(重年)や、
5代当主島津久方(重豪)は、
宗家を相続して墓はここに在りません。
「錦水院殿天禓子嘏大居士(右)」、
「清窓院殿梅屋貞芳大姉(左)」。
6代当主島津久徴の墓と、
久徴正室清窓院の墓。
4代重年の仮養子島津久峰の長男で、
5代久方が宗家に籍を移した為、
当主不在であった加治木家を相続。
郷校毓英館を設立させたり、
儒学者を他所から呼び寄せる等、
領内の学問や教育を充実させました。
28年の当主在任後に隠居。
その9年後に死去しています。
「高照院殿廓雲昌泰大居士(右)」、
「松月院殿貞觀恵明大姉(左)」。
7代当主島津久照の墓と、
久照正室松月院の墓。
6代久徴の嫡男として生まれ、
父の隠居により家督相続。
前藩主重豪に対抗する近思録派により、
領内の仕置が不届きであるとの理由で、
父共々謹慎処分を受けています。
16年の当主在任後に死去。
「久徳院殿祥禾文鳳大居士(右)」、
「文清院殿真鳳妙祥大姉(左)」。
8代当主島津久徳の墓と、
久徳正室文清院の墓。
今和泉島津家8代島津忠厚の子で、
7代久照の養子となって家督を相続。
領内に用水池を設置する等、
家政を顧みた当主だったようで、
藩政にも大きく関与しています。
34年の当主在任の後に死去。
「憲徳院殿元性雄亨大居士」。
9代当主島津久長の墓。
8代久徳の嫡男に生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
11代藩主島津斉彬に重用され、
軍備増強等で藩政に関与していますが、
僅か7年の当主在任後に死去しています。
「文憲久寶彦命」。
10代当主島津久寶の墓。
9代久長の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
幕末期に久寶を名乗った人物が3人おり、
この加治木島津家の久寶の他にも、
宮之城島津家14代当主や、
豊州島津家15代当主がいます。
豊州家の方は先代の名前も被っており、
非常にややこしく解り辛い。
但し宮之城家の久寶は嘉永5年に死去し、
豊州家の久寶も安政期に失脚した為、
幕末後期や戊辰戦争で活躍したのは、
この加治木家の久寶のみでした。
明治20年、死去。
「正四位勲三等男爵島津久賢墓」。
11代当主島津久賢の墓。
人吉藩15代藩主相良頼基の六男で、
前当主夫人健の養子となり家督を相続し、
先代の戊辰の功により男爵を叙爵しています。
「島津家之墓」。
12代当主島津久英以降の合葬碑。
現在も系譜は続いているようです。
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