加治木島津家の居館加治木御仮屋跡は、
柁城小学校及び加治木高等学校の敷地辺り。
加治木高等学校の南西には、
加治木護国神社が建てられており、
御仮屋跡の石垣が残されています。
「加治木御仮屋跡」。
島津義弘は晩年を加治木で過ごし、
ここに居館を建設しています。
義弘の死後は孫の島津忠朗に与えられ、
※居館ははじめ初代藩主島津忠恒が、
別荘として使用していたとのこと。
遺領と遺臣を引き継ぎ加治木島津家が成立。
周辺に馬場や武家屋敷が建てられて、
外城のひとつ加治木麓が形成されました。
「加治木護國神社」。
戊辰戦争で戦死した家臣らを祀る為、
明治3年に端山に招魂社が建てられ、
以後は佐賀の乱、西南戦争において、
官軍として戦って戦死した家臣らを合祀。
明治18年に現在地に移転したようで、
その後の戦役の戦没者を合祀しています。
「義弘公薨去地碑」。
境内にある終焉の地碑。
島津義弘は余生をここで過ごし、
元和5年(1619)にここで死去しました。
「戦亡招魂之表」碑。
西南戦争で西郷軍として参加し、
戦死した166名の名が刻まれています。
加治木には私学校の分校があったようで、
彼らは磯造船所の武器庫を襲撃し、
7~8艘の船に弾薬を積み込んで、
加治木木戸長役場の土蔵に隠したという。
加治木の諸隊は六、七番大隊に編成され、
給養や軍夫を含め894名が従軍。
戦死及び戦病死者は167名であったという。
加治木島津家は藩内最高位の御一門。
4代島津久門が7代藩主島津重年に、
5代島津久方が8代藩主島津重豪となり、
藩内で別格の扱いを受けていたとされます。
■関連記事■
・鹿児島県姶良市 島津久薫墓所
2代当主久薫夫妻の墓があります。