鹿児島県姶良市 島津久薫墓所

関ケ原の戦いの後に島津義弘は、
加治木で晩年を過ごしており、
そこにあった大樹寺を崇敬していました。
その死後に息子の初代藩主島津忠恒は、
義弘と母の実窓夫人の位牌及び、
早世した自身の3人の娘の位牌を、
大樹寺に納めて菩提寺としていますが、
寺地が不便な場所にある事と、
加治木御仮屋鬼門にあたる事から、
現在の跡地に移転。
その際に寺名を長年寺を改めました。

義弘遺領は忠恒の三男島津忠朗が拝領し、
加治木島津家が興されており、
後に最高位の御一門の家格となっています。


加治木島津家墓所(長年寺跡)」。
加治木島津家当主の歴代墓所は、
初代忠朗が建立した能仁寺跡にあり、
長年寺には親族の墓が建てられました。
但し2代島津久薫夫妻の墓は、
この長年寺跡にあります。


島津久薫墓(右)」、
島津久薫室於西墓(左)」。
加治木島津家2代当主島津久薫の墓と、
久薫の正室西姫の墓。
初代忠朗の子として生まれ、
父の死後に家督を相続しており、
10年間の在任後に54歳で死去しました。
正室の西姫は2代藩主島津光久の娘。

その他墓所には忠恒の娘の墓や、
当主の妻や子の墓があり、
立派な墓石が建ち並んでいますが、
その中でも一際目立つ碑があります。

島津都美供養碑((亀趺碑)」。
この巨大な亀趺碑は、
4代当主島津久門の正室都美姫のもの。
彼女は垂水島津家9代島津貴儔の娘で、
久門の正室となり男子を出産しますが、
産んだその日に亡くなっています。
この男子が後の8代藩主島津重豪で、
将軍御台所に自分の娘を送り込み、
高輪下馬将軍と称された藩主。
彼は実母の三十三回忌の際、
母の墓の隣にこの供養塔を建立し、
亡き母を偲んでいます。


正覺院殿貞範〇〇大姉」。
4代久門の正室都美姫の墓。
夫の久門は後に7代藩主となりますが、
彼女はそれ以前に死去しているので、
藩主正室にはなっていません。
藩主の妻であり藩主の母でありながら、
その恩恵も受けぬまま逝った母の為、
巨大な碑を建てたのかもしれませんね。

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