紹隆寺は重富島津家の菩提寺で、
廃仏毀釈により廃寺となっていましたが、
昭和63年に永平寺の不老閣を移設し、
再建を果たしています。
島津家墓所を巡っていると、
その菩提寺は悉く破壊されていた為、
紹隆寺も廃寺のままだと思っていました。
墓地の横に大きな仏殿があったのは、
勿論気が付いてはいましたが、
別の寺院であると思い込んで、
墓地だけを訪問してしまっています。
基本的に墓所へ参拝する時は、
必ず本堂に手を合わせているのですが、
よく調べもせずに墓所を訪問してしまい、
非常に後悔・・・。
「重富島津家墓所」。
島津家の墓地は山麓が多く、
木々に囲まれた場所が多いのですが、
ここは広々としています。
この時点でピンと来ないとは・・。
ナビの案内で裏手から行った事も、
勘違いの理由です。
重富島津家は4代藩主島津吉貴が、
四男島津忠紀に越前島津家の系図を与え、
同家を再興させた事に始まります。
越前島津家は初代島津忠久の孫で、
越前守護代島津忠綱の子島津忠行が、
播磨国下揖保の地頭に任じられ、
同地に移住した系譜。
室町末期には既に滅んだ家でしたが、
忠紀はこの名跡を継いだ為、
所領である大隅国姶良郡脇元を、
越前家の領地に因んで重富に改称し、
以後は重富島津家と称しました。
「洼巖院殿淨阿徹心大居士」。
初代(越前家16代)当主島津忠紀の墓。
4代藩主吉貴の四男に生まれ、
隠居していた父の意向により、
幼くして越前島津家の名跡を相続。
御一門の家格が設置された際は、
その筆頭とされました。
5歳から29年の当主在任の後、
33歳で死去しています。
「圓〇院殿壽徳鶴遊大居士」。
2代(越前家17代)当主島津忠教の墓。
初代当主忠紀の長男として生まれ、
父の死去により僅か3歳で家督相続。
34年の当主在任後に隠居し、
26年後に死去しています。
「賢徳院殿松岳静洞大居士」。
3代(越前家18代)当主島津忠貫の墓。
2代忠救の嫡男として生まれ、
忠救の隠居に伴い家督を相続。
30年の当主在任後に隠居し、
その後36年も隠居生活を送っています。
慶応2年、死去。
「豊霊真号彦命」。
4代(越前家19代)当主島津忠公の墓。
9代藩主島津斉宣の三男に生まれ、
3代忠貫の養嫡子となりますが、
健康上の理由から更に養子を取り、
10代藩主島津斉興の五男又五郎(忠教)が、
忠公の養子となっています。
養父の隠居により家督を相続しますが、
僅か8年で隠居しており、
33年の隠居生活を送りました。
明治5年、死去。
5代(越前家20代)当主島津忠教は、
後の薩摩藩国父島津久光。
10代藩主斉興と側室お由羅の子で、
忠公の娘於千百を娶り婿養子となって、
義父の隠居に伴い家督を相続しており、
後に国父として宗家に復帰しています。
「従三位勲三等男爵島津珍彦墓」。
6代(越前家21代)当主島津珍彦の墓。
久光が宗家に復帰した事により、
重富島津家を相続した久光の四男。
禁門の変や鳥羽伏見の戦い、
箱館戦争に出陣したとされており、
維新後は照国神社宮司や、
中学造士館館長、貴族院議員を務め、
明治43年に死去しています。
「正四位男爵島津壮之助墓」。
7代(越前家22代)当主島津壮之助の墓。
6代珍彦の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い重富島津家を相続。
大正14年に死去しています。
「西雲院殿慈一貞心大姉」。
5代忠教(久光)の正室於千百の墓。
4代忠公の娘で忠教の正室となり、
忠教との間に五男四女を産みましたが、
27歳で早逝してしまいました。
彼女の子には後の薩摩藩主島津忠義、
宮之城家15代当主島津久治、
今和泉家13代当主島津忠欽等がいます。
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