福昌寺跡には島津久光の墓もあります。
久光は明治4年に玉里島津家を興しており、
最終的に島津宗家の人間ではありませんが、
宗家歴代の墓が居並ぶ宗家墓所の中央に、
最も広い墓域で聳えています。
「前左大臣従一位大勲位侯爵島津久光墓」。
玉里島津家初代当主島津久光の墓。
薩摩藩10代藩主島津斉興の五男で、
その側室お由羅の子として生まれます。
始め種子島久道の養子となりますが、
後に重富島津家の婿養子となり、
その家督を相続。
斉興は久光を後継としたかったようですが、
嫡男島津斉彬は将軍御目見も済んでおり、
一橋家から正室も迎えている為、
斉彬を廃嫡させる事が出来ず、
隠居もせずに藩主であり続けました。
このような状況で斉彬を擁立する派閥と、
久光を推す派閥が争うようになり、
お由羅騒動が勃発。
斉彬派に対する弾圧が始まりますが、
これが福岡藩や幕府を巻き込む事となり、
最終的に斉興は隠居し、
斉彬が11代藩主となります。
しかし斉彬は安政5年に死去してしまい、
家督は遺言により久光の子島津忠義が相続。
翌年には斉興も死去した為、
藩主の実父として実権を握る事となりました。
小松帯刀や大久保利通を登用し、
公武合体運動を推進して勅使東下を実現。
図らずもこの久光の動きにより、
寺田屋騒動や生麦事件が発生しますが、
幕政改革の実現をある程度成功させます。
※生麦事件の影響で後に薩英戦争が勃発。
長州藩の勢力を京都から追放し、
諸候を招集して参預会議を成立させますが、
足並みが揃わず挫折し、
参預を辞任して鹿児島に帰郷。
禁門の変、第二次長州征伐、孝明天皇崩御等、
政情は目まぐるしく変化し、
徳川慶喜が15代将軍に就任すると、
松平春嶽、山内容堂、伊達宗城と共に、
諸問題について慶喜と協議しますが、
折り合いがつかずに政治的妥協を断念。
薩摩藩は討幕へと舵を切ります。
維新後も藩内で権力を握り続けましたが、
新政府の改革には批判的で協力を拒み、
廃藩置県には激怒していたという。
その後に分家して玉里島津家を興し、
内閣顧問や左大臣に就任するものの、
旧習復帰を願って政府の改革に反対。
鹿児島に戻って隠遁生活を送りました。
晩年も政府の方針に反発を続け、
和装帯刀で髷も切らなかったという。
明治20年に死去しており、
葬儀は国葬として執り行われています。
福昌寺跡には玉里家2代島津忠済の墓も。
「従一位勲一等侯爵島津忠済卿
田鶴子墓」。
玉里島津家2代当主島津忠済と、
妻の田鶴子の墓。
久光の七男として生まれ、
父の死去に伴い玉里島津家を相続。
貴族院公爵議員、宮内省宗秩寮審議官、
麝香間祗候等を務めています。
妻の田鶴子は公卿竹内治則の娘で、
子爵竹内惟忠の妹。
久光は西郷隆盛との不仲によってか、
後世では良い評価がありませんが、
幕末期に精力的に活動し、
内外に多大な影響を与えた人物で、
幾多の事件に関わっていた事からも、
維新の立役者のひとりともいえます。
晩年の変化した世の中に対し、
反発し続けたのも人間味がありますし、
個人的には嫌いな人物ではありません。
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