愛媛県大洲市 曹渓院/大洲藩加藤家墓所

曹渓院は大洲市の臨済宗妙心寺派寺院。
初代藩主加藤貞泰により、
加藤光泰の菩提を弔う為に、
美濃国黒野に創建した寺院でしたが、
大洲藩移封に伴い現地に移っています。


曹渓院」。
ここに加藤光泰の霊廟の他、
初代、6代、8代、10代、11代、
そして13代藩主の墓があります。
実は5年前に一度訪問していますが、
愛媛県大洲市 寿永寺と曹渓禅院
その際は時間が無くて諦めていたので、
再度訪問した次第です。


加藤光泰霊廟」。
10藩主加藤泰済が造営したもので、
朱色で塗られた切妻造の霊廟で、
光泰の経歴や功績を刻んだ石製の厨子が、
内部に納められているという。
本墓は甲斐善光寺にあります。
光泰は斎藤道三の家臣加藤景泰の子で、
斎藤家が織田信長に滅ぼされると、
浪人となって近江に逃れました。
信長は斎藤家との戦いで光泰を評価しており、
羽柴秀吉の仲介で織田家に仕え、
秀吉に付属されて配下となります。
浅井家毛利家との戦いで功を挙げ、
本能寺の変後の山崎の戦いでは、
池田恒興らと共に明智光秀本隊の側面を突き、
羽柴秀吉方の勝利に貢献。
この功績によって大名へと昇進し、
以後も賤ケ岳の戦い小牧長久手の戦い
小田原征伐等で功績があり、
甲斐国24万石の大大名となりました。
文禄の役にも願い出て出陣しますが、
陣中で発病してしまいそのまま死去。
毒殺説も囁かれたという。


泰行廟」。
初代藩主加藤貞泰及び、
8代藩主加藤泰行の御霊屋。
初代貞泰の墓と8代泰行の墓は、
並んで建てられています。
左が貞泰の墓のある門なのですが、
写真は木で隠れてしまいました。
一般墓地から僅かに内部が覗けます。
初代貞泰は光泰の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を継ぎますが、
若年の為に24万石の相続は認められず、
4万石で美濃国黒野に移封されました。
関ヶ原の戦いでは東軍となっており、
所領を安堵され黒野藩を立藩。
後に米子藩に6万石で加増転封となり、
更に大洲藩に転封されています。
8代泰行は6代加藤泰衑の次男に生まれ、
7代加藤泰武の養嫡子となり、
養父の死去に伴い家督を相続しますが、
その翌年に死去しました。


泰済廟」。
10代藩主加藤泰済の御霊屋。
9代加藤泰候の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
幕命による手伝普請や天災により、
財政が逼迫した為に倹約令を出し、
藩士らの知行も減らして対応。
これが功を奏して財政は安定したという。
40年の長期治世の後に死去しています。


濬良院殿前遠州刺史哲叟威儀大居士」。
11代藩主加藤泰幹の墓。
泰済廟の裏側にあります。
10代泰済の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
手伝普請や災害での財政難に、
先代と同じく倹約令で対応しており、
更に物価引下げ、物品の公定価格を設定し、
財政改革に成功しています。


大義院殿正二位子爵明道大居士」。
13代藩主加藤泰秋の墓。
光泰霊廟と泰済廟の間にあります。
11代泰幹の四男として生まれ、
兄の12代加藤泰祉の死去で家督を相続。
父と同じく尊攘派であったようで、
明治天皇東京行幸では前衛を務めました。
廃藩後は貴族院子爵議員を務め、
後に大正天皇侍従となっています。

本堂近くに上記の墓は集まっていますが、
これらとは離れて一般の墓地の中に、
6代藩主の墓が建てられています。

寛厚院殿前羽州刺史仁叟道儀大居士(右)」、
五品太夫作州太守藤泰義公之墓(左)」。
6代藩主加藤泰衑の墓と、
2代藩主加藤泰興の嫡男加藤泰義の墓。
旗本加藤家当主加藤泰都の長男に生まれ、
5代加藤泰温が継嗣無く死去した為、
その跡を継いで6代藩主となります。
朝鮮通信使勅使接待役を務め、
財政が悪化した為に重税を課し、
大規模な一揆を発生させてしまいました。
内ノ子騒動
先代泰温の遺児加藤泰武が成人した為、
家督を譲って隠居しましたが、
泰武及び次代の泰行は早逝した為、
藩の存続に尽力しています。
外から来た繋ぎの藩主と思っていたのか、
墓は遠慮気味に離れて建てられました。

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