如法寺は大洲市にある臨済宗妙心寺派の寺院。
大洲藩2代藩主加藤泰興によって再建され、
大洲藩加藤家の菩提寺となりました。
元々如法寺は喜多郡領主宇都宮氏が創建し、
その後に廃寺となっていたようです。
「仏殿」。
寛文10年(1670)建立の仏殿。
堂内には釈迦如来像が安置されており、
その左右に開山の盤珪永琢像と、
開基の加藤泰興像が置かれているようです。
国指定重要文化財。
手前は地蔵堂で右奥の白い建物は経蔵。
「大方丈(本堂)」。
寛政3年(1791)再建の大方丈。
如法寺は二度も火災に見舞われたようで、
仏殿以外は焼失しているようです。
加藤家の墓所は裏山。
「圓明院殿前羽州太守月窓信大居士 神儀」、
「豫洲如法禪中興碑(亀趺碑)」。
大洲藩2代藩主加藤泰興の墓。
初代加藤貞泰の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
大洲藩の藩政確立に努め、
盤珪永琢を招いて如法寺を再興。
淡路流槍術を学んだ槍の達人とされ、
加藤家伝流槍術を開いています。
「英久院殿前遠州太守傑山紹俊大居士 神儀」、
「大洲城主加藤君碑(亀趺碑)」。
大洲藩3代藩主加藤泰恒の墓。
2代泰興の長男加藤泰義の次男に生まれ、
父が家督相続前に死去した為、
祖父の隠居により家督を相続しました。
知行制から蔵米支給に変更し、
藩財政の安定化を図ると共に、
領内の権力を集中させています。
絵画に優れた大名であったという。
「顕徳院殿前羽州刺史圓恵紹明大居士 神儀」。
大洲藩4代藩主加藤泰統の墓。
3代泰恒の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続します。
治世では天災や火災が相次いでおり、
財政難に対応する為に改革を行いますが、
目に見える成功は事はなかったという。
「大心院殿前遠州刺史泰叟玄高大居士 神儀」。
大洲藩5代藩主加藤泰温の墓。
4代泰統の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い12歳で家督を相続。
天保飢饉により藩は大損害を受けており、
緊縮財政政策を執っています。
また陽明学を藩内に普及させる為、
儒学者川田雄琴を招集していますが、
その翌年に死去してしまいました。
「廣善院殿前遠州刺史頴鋒義俊大居士 神儀」。
大洲藩7代藩主加藤泰武の墓。
5代泰温の長男として生まれますが、
泰温は泰武誕生前に死去しており、
6代藩主は分家の旗本加藤泰衑が相続。
泰衑は泰武の元服を待って家督を譲り、
泰武が7代藩主となっています。
朝鮮通信使の接待や普請等の公務により、
慢性的な財政難であった為、
家臣団の減禄を行ったり、
各村々の村高に応じた出銀を課す等、
藩費の捻出に苦慮したという。
24歳の若さで死去しており、
僅か6年の治世でした。
「憲章院殿前遠州刺史篤應惟恭大居士 神儀」。
大洲藩9代藩主加藤泰候の墓。
6代泰衑の四男として生まれ、
兄の8代加藤泰行の死去に伴い家督を相続。
財政再建策の一環として磁器生産を奨励し、
砥部焼を創始させています。
治世では2度も江戸藩邸が焼失しており、
更に大洲城下で水害が起こる等、
多難を極めていたという。
書に優れた藩主であったようです。
「洪徳院殿四品前羽州刺史
仁岳宗温大居士 神儀」。
大洲藩12代藩主加藤泰祉の墓。
11代加藤泰幹の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
村々への融資を行う基金制度を制定し、
農業振興や治水及び港湾工事を行い、
窮民救済や財政再建を図りました。
宮廷守衛の任についており、
尊皇攘夷派であったようですが、
元治元年の動乱期に21歳で死去しています。
3、4、12代はすぐ見つかりましたが、
山道を行ったり来たり探せど、
2、5、7、9代がなかなか見つからず、
1時間程度歩いてようやく全てみつけました。
大洲市のHPに地図が載っていますので、
印刷して持って行った方が良いかもです。
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