新谷藩は大洲藩の支藩で、
大洲藩2代加藤泰興の弟加藤直泰が、
1万石を分知されて成立した藩です。
大洲藩初代加藤貞泰が世嗣を定めず死去し、
幕命により長男泰興が後継とされましたが、
次男の直泰はこれを不服として対立。
幕府の仲裁で泰興より1万石が分知され、
新谷藩が立藩する事となりました。
「新谷陣屋跡」。
新谷陣屋跡は大洲市立新谷小学校の敷地。
その個性的な校舎が印象的です。
「新谷陣屋跡」碑と「メーテル像」。
新谷小学校の正門脇には陣屋跡の碑と、
銀河鉄道999のメーテルの銅像があります。
作者松本零二が大洲市街から疎開しており、
新谷小学校に通った縁から建てられました。
新谷の田園風景を走る蒸気機関車から、
銀河鉄道999の構想にヒントを得たとされ、
校舎にも作者が描いた壁画があるそうです。
ちなみにメーテルのモデルは、
幕末の女医楠本イネの娘楠本高子という。
「麟鳳閣」。
校舎裏にある新谷陣屋の現存遺構。
慶応4年3月に建てられたもので、
評定所や謁見所として使用されたようです。
廃藩置県後は新谷県庁舎や、
令教小学校校舎として利用されました。
不審者と思われないように注意して、
写真を撮ってそそくさと退散致しました。
「金蔵」。
新谷小学校から南に進み、
駐車場のあるT字路を右に曲がった場所に、
新谷陣屋の金蔵が現存しています。
新谷藩は肱川の氾濫等の災害が相次ぎ、
年貢収入が思うように入らず、
慢性的に財政は困窮していました。
歴代藩主は倹約令を度々出していますが、
それでも財政は改善される事なく、
宗家の大洲藩を頼るしかなくなっています。
幕末には対外情報の緊迫に伴い、
更に財政出費が増えていますが、
御用銀で賄いなんとか凌ぎました。
文久3年には郷組(農民鉄砲隊)を組織し、
小藩ゆえの微弱な軍備を補填。
宗家と同様に早くから藩論を勤皇に定め、
長州藩及び七卿の取扱いの諮問には、
寛大な処置をとることを答申しました。
伊予松山藩征伐にも大洲藩同様に出兵し、
藩兵70余名を出兵させています。
【新谷藩】
藩庁:新谷陣屋
藩主家:直泰流加藤家
分類:1万石、外様大名(大洲藩支藩)
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