法眼寺は新谷藩初代藩主加藤直泰が、
実母の菩提を弔う為に創建されました。
「法眼寺」。
法眼寺は大洲の法眼院の末寺として、
※直泰の実母である法眼院は、
大洲藩2代加藤泰興の母でもあります。
新谷藩加藤家の庇護を受けて隆盛。
初代と6代の墓所も建てられました。
法眼寺の墓地は本堂裏手。
山の斜面に墓が並んでいますが、
何故か殆どの墓碑が南側を向いており、
麓を背にして建っています。
「加藤家墓所」。
藩主の墓所は墓所の高い位置。
小屋が設置されていますが、
御霊屋ではなく物置のようです。
そして藩主の墓も山側向き。
「従五位下藤原姓加藤織部正直泰」。
新谷藩初代藩主加藤直泰の墓。
大洲藩初代加藤貞泰の次男に生まれ、
父が世嗣を定めないまま死去した為、
幕府の裁定で兄加藤泰興が後継とされ、
直泰に1万石の相続が内諾されますが、
泰興はこれを認めず対立しました。
後に藩内分知で和解していますが、
藩内分知ながら大名と認められています。
50年に渡る治世で藩政の基礎を固め、
天和2年に死去しました。
「従五位下加藤出雲入道藤原泰賢之墓」。
6代藩主加藤泰賢の墓。
5代加藤泰宦の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
藩校求道軒の創設等の治績がありますが、
省略令や知行削減、御用金拠出等、
なんとか財政難の解消に努めましたが、
その甲斐なく財政は破綻寸前となります。
この為に大洲藩の援助を頼った為、
以後は大洲藩より役人が派遣され、
5年間事実上の管理下に置かれました。
この責によって泰賢は隠居しており、
後に剃髪して出家しています。
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