平成23年に九州新幹線が全通してから、
新下関から鹿児島中央まで2時間となり、
かなり行きやすくなっています。
とはいえ仕事で鹿児島に行く場合は、
道具や荷物があるので車が多く、
今回たまたま荷物が少なかったので、
始めて九州新幹線で鹿児島まで行きました。
何度か鹿児島には来た事ありますが、
なかなか史跡に行く事が出来ず、
鹿児島の記事は相当古いものしかない。
鹿児島県鹿児島市 市内中心部
とりあえずもう一度鶴丸城を訪問しようと、
早朝から行ってみました。
「御楼門跡(工事中)」。
なにか工事している・・・。
しかも結構大規模な・・・。
なんと御楼門が再建されるようです。
明治6年に撮影された鶴丸城。
天守の無い鶴丸城の象徴は御楼門でしょう。
その御楼門が再建されるの良い事ですね。
これは完成後にもう一度訪問しなければ。
「薩藩御城下絵図」より。
鶴丸城は77万石の薩摩藩の本拠なのですが、
その規模は陣屋レベルのもの。
薩摩藩は領内に外城と呼ばれる拠点を配置し、
敵を城下に入れる前に撃退する事を想定。
九州最南端に位置する薩摩藩は、
領内を他藩人が通行する事もなく、
城で威勢を張る必要もありません。
また幕府に対して恭順を示す意味もあり、
ここを攻められるようであれば、
既にお仕舞いであるというような、
潔さを示した城であるような気もします。
一応背後の城山を後詰めと想定していますが、
これといった施設があったわけではなく、
[最後は山に篭って戦おう!]程度でした。
西南戦争で西郷軍が立て篭ったのも城山で、
西郷軍も鶴丸城に防御力が無い事を、
充分に理解していたようです。
本丸北側には出丸があったようですが、
堀などもなく低い石垣で囲まれていただけ。
ここに西郷隆盛が私学校を創設しています。
「西南戦争の銃弾跡」。
西南戦争に敗れて鹿児島に戻った西郷軍は、
既に占拠されていた私学校を奪還しますが、
体勢を立て直した政府軍に再度奪還されます。
その際の激戦を物語るように、
石垣に無数の弾痕が残っています。
「私学校記念碑」。
私学校及び出丸のあった場所は、
現在鹿児島医療センターとなっており、
敷地内に私学校の記念碑があります。
幼年学校、銃隊学校、砲隊学校で構成され、
私の名称のわりに県予算が支出され、
幼年学校のみが西郷、大山綱良、桐野利秋、
そして大久保利通等の私費で創設されました。
「西郷隆盛銅像」。
二ノ丸跡にある西郷隆盛の像。
鶴丸城の二ノ丸跡はこの西郷隆盛像の他、
図書館、美術館、近代文学館等があります。
東京上野の西郷隆盛像も有名ですが、
糸子夫人が[こげなお人じゃなか]と、
呟いたとされていますが、
人様の前に普段着で出ないという意味とされ、
顔が似てないという訳ではなかった様です。
こちらは夫人の死後の建立ですので、
感想を聞くことは出来ませんが、
正装の夫の像が地元に建てられた事は、
喜ばしい事だったのではないでしょうか?
二ノ丸のあった場所から照国神社へ。
「照国神社」。
鶴丸城で幕府への恭順を表した他にも、
東照宮を建立して幕府の顔色を伺っています。
徳川家康の百回忌、二百回忌には、
盛大な法要が行われたようですが、
幕末に破壊されてしまったようです。
※時期はちょっとよくわかりません。
照国神社は島津斉彬を祀る照国神社で、
東照宮の跡地に造営されました。
「贈正一位島津斉彬公之像」。
境内にある斉彬の銅像。
「従一位島津久光公之像」。
こちらも境内にある国父島津久光の銅像。
「従一位島津忠義公之像」。
最後の藩主島津忠義の銅像。
このあたりで時間切れ。
客先と待ち合わせの場所へ。
「大久保利通像」。
高見橋のたもとにある大久保利通の像。
維新三傑のひとりです。
大久保利通没後百年記念で建立されたもの。
コートを翻すなかなかカッコいい銅像ですね。
無事にお客さんと合流して仕事を終え、
帰る前に城山に登りました。
城山からの桜島。
城山から見る桜島は良いですね。
西郷もここから桜島を眺めたのでしょう。
南北朝時代の土豪上山氏が上山城を築城し、
上山氏が去って廃城となっていましたが、
初代藩主島津忠恒が麓に鶴丸城を築城。
山頂部の上山城跡を後詰めの城とします。
以後も城山に何か建てられた記録はなく、
城山が城として機能するのは、
明治10年の西南戦争になってから。
城山に立て篭もる西郷軍は370余名。
包囲する政府軍は7万という絶望的状況。
助命嘆願や降伏勧告等が行われた後、
政府軍の総攻撃が開始されます。
次々と同志が倒れる中で西郷も被弾し、
観念した西郷の首を別府晋介が討ち、
それを見届けた将兵らは突撃を行いました。
戊辰戦争の戦死者数は8421人なのに対し、
西南戦争の戦死者数は13168人でした。
戦死者数では一概に判断はできませんが、
その規模が想像できるでしょう。
両軍戦死者数がほぼ同数なのも特色で、
盛大な消費活動の末に、
数の多い方が勝ったとも云えます。
黒船来航に始まる幕末維新の歴史叙情詩は、
西南戦争を以って終焉するとされます。
もちろんそれ以降も歴史は続く訳ですが、
ひとつ歴史としての区切りとして、
この西南戦争の悲劇が起こり、
以降日本は富国強兵へと向かっていきます。
【薩摩藩】
藩庁:鶴丸城
藩主家:島津宗家
分類:77万石、外様大名(国持)
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・鹿児島県鹿児島市 市内中心部
初の鹿児島県の記事。
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2度目の鹿児島県の記事。