鹿児島県鹿児島市 鶴丸城跡(再訪)

薩摩藩の藩庁鶴丸城へ再訪。
前回訪問時はまだ御楼門が再建途中で、
鹿児島県鹿児島市 鶴丸城跡
今回は完成してから初の訪問となります。


御楼門」。
御楼門は鶴丸城本丸の正門でしたが、
明治6年に火災で焼失していましたが、
令和2年に復元されています。
鶴丸城は慶長6年(1601)に島津忠恒が、
城山(上山城跡)の東麓に築城を開始し、
慶長9年(1604)に完成した城。
※それまでの本拠は大竜町にあった内城
天守等の高層建築や高石垣は築かれず、
防御に不向きな屋形造の平城で、
77万石の大大名の居城としては、
非常に質素で単純でした。
その分御楼門は城のシンボルであり、
再建は他の城の天守に匹敵するもの。


桝形虎口」。
御楼門をくぐると桝形虎口
石垣には西南戦争弾痕が無数に残り、
戦いの激しさが伝わってきます。
明治6年に御楼門は焼失してますので、
西南戦争時は石垣だけだった模様。


鹿児島県歴史資料センター 黎明館」。
本丸御殿跡に建っている資料館。
鹿児島の歴史資料が展示されています。


天璋院」像。
13代将軍徳川家定御台所天璋院の銅像。
幼名は於一で通称は篤姫
今和泉島津家5代島津忠剛の長女で、
幕府より御台所候補の選出を打診され、
薩摩藩は一門家から於一を選び、
11代島津斉彬の養女となります。
そのうえで右大臣近衛忠熈の養女となり、
安政3年に将軍家定に輿入れ。
しかし家定は僅か2年で死去してしまい、
落飾して天璋院を名乗りました。
14代将軍は徳川家茂が就任し、
公武合体政策から皇女和宮が降嫁。
和宮と嫁姑の関係から不仲でしたが、
和解して徳川慶喜大奥改革に反対したり、
大政奉還後は徳川家の存続に尽力しました。
幕府崩壊後も島津家には戻らず、
徳川宗家の一員として過ごし、
晩年は和宮(静寛院宮)と交友する等、
自由な時間を過ごしながら、
宗家16代徳川家達を留学させるなど、
英才教育を受けさせています。
明治16年、死去。
この像は平成22年に建立された像です。


従三位島津重豪公頌徳碑」。
8代藩主島津重豪の頌徳碑。
11代将軍徳川家斉御台所広大院の父で、
将軍岳父として権勢を振るい、
高輪下馬将軍と称されていた重豪。
蘭学に強い関心があったようで、
蘭癖大名とも渾名されていました。
藩校造士館も重豪が創設しており、
その後継である第七高等学校造士館により、
昭和17年に建てられたもの。
鶴丸城跡はかつて校舎だったようです。
この他に七高生久遠の象など、
第七高等学校造士館関係や、
行幸記念碑等がありましたが割愛。

本丸跡の隣には二ノ丸跡があり、
跡地は鹿児島県立図書館ですが、
それ程見るべきものもないようです。
※中の資料は宝の山でしょうけど。

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 前回訪問時の記事。
東京都台東区 寛永寺/徳川将軍家墓所
 天璋院の墓もある徳川将軍家の墓所。

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