東京都台東区 寛永寺/徳川将軍家墓所

寛永寺上野にある天台宗関東総本山
開基は3代将軍徳川家光で、
南光坊天海が開山となっています。
将軍家の祈祷所及び菩提寺で、
6人の将軍の廟所となっており、
3世貫主以降は皇族が務めていた為、
朝廷との繋がりが大変深かったという。
貫主は原則として天台座主を兼務し、
代々輪王寺宮と尊称。
日光山比叡山をも管掌して、
江戸期には強大な権勢を誇っていました。

将軍家菩提寺は浄土宗増上寺でしたが、
3代家光は天台宗に大いに帰依しており、
自らの葬儀を寛永寺に行わせ、
遺骸は日光へ埋葬するように遺言。
次いで4代徳川家綱、5代徳川綱吉と、
寛永寺が廟所となった事で、
寛永寺は徳川家の菩提寺となります。
これに増上寺側から反発があった為、
6代徳川家宣の廟所は増上寺に造営され、
以降は交互に将軍廟所が造営されるに至り、
これが幕末まで続いています。


根本中堂(本堂)」。
根本中堂は元禄11年(1698)に造営され、
現在の上野公園大噴水辺りにあったという。
当時の根本中堂は上野戦争で焼失した為、
明治12年に川越喜多院の本地堂を移築。
従って寛永寺本来の建物でありません。
本尊は秘仏薬師三尊像
徳川慶喜が2ヶ月程蟄居した書院が、
裏手に現存しています。


上野戦争記碑」。
根本中堂前にある上野戦争の記念碑。
阿部弘蔵が上野戦争の経緯を記したもので、
明治45年に建立されたもの。
阿部は彰義隊の名付け親でもある人物で、
当時若干20歳ながら学問に長け、
西洋流兵術も身に付けていた逸材でした。

根本中堂右手から寛永寺第一霊園へ。

御三家拝殿(左)」、
御三卿拝殿(右)」。
柵で近づく事が出来ない2棟の位牌堂
位牌堂で拝殿??よくわかりませんが、
昭和38年に再建されたものとのこと。


徳川綱吉霊廟勅額門」。
寛永寺の徳川家霊廟は、
東京大空襲で大部分の建物が焼失。
この勅額門は焼け残った貴重な遺構です。
国指定重要文化財


常憲院霊廟」。
常憲院霊廟は5代綱吉の廟所。
この中には綱吉の他にも、
8代徳川吉宗、13代徳川家定
16代徳川家達、17代徳川家定の他、
天照院等の墓があります。
基本的には非公開ですが、
特別拝観で内部を拝観できるとのこと。
現在はコロナ禍で中止されている模様。
そろそろ復活して頂きたいですね。

そもそも常憲院霊廟は綱吉の廟所で、
他に4代家綱の厳有院廟所もありますが、
7代吉宗が享保の改革の一環として、
豪奢な墓所を新規に造営せずに、
自らの墓は常憲院霊廟内に建てるよう遺言。
以降もこれに倣っており、
10代徳川家冶と11代徳川家斉が、
厳有院霊廟内に葬られ、
13代家定、16代家達、17代家定が、
常憲院霊廟内に葬られています。


徳川家綱御霊廟勅額門(内側)」。
厳有院霊廟の勅額門も現存。
写真は寛永寺第二霊園の内側からのもの。
この門は外からも見れます。
国指定重要文化財。


表側。



厳有院霊廟」。
厳有院霊廟は4代家綱の廟所。
ここは綱吉と同じく元々家綱の廟所で、
後に10代家冶と11代家斉が葬られ、
3人の廟所となっています。
門前の水盤舎は現存遺構で、
勅額門と共に重要文化財となっています。
内部は完全非公開のようで、
特別拝観も行われていません。

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