東京都台東区 谷中霊園/徳川慶喜墓所

谷中霊園へ初訪問。
政府は朱引内の埋葬を禁止し、
明治7年に墓地取扱規則を制定します。
これを受け東京府が8ヶ所に墓地を開設。
そのひとつが谷中墓地でした。
元々は天王寺の寺域の境内でしたが、
その一部が没収されて墓域に充てられ、
天王寺の墓域や寛永寺の墓域が入り組んで、
ひとつの大きな墓地となっています。
この巨大な墓地には幕末維新の人物や、
大名家の墓も多く存在していますが、
これを全て参拝するのは1日では不可能。
何度も足を運ばないといけないでしょう。
その最初として徳川慶喜を選びました。

慶喜の墓は谷中霊園内の、
寛永寺谷中第二霊園にあります。

従一位勲一等徳川慶喜之墓(左)」、
徳川美賀子之墓(右)」。
15代将軍徳川慶喜と正室美賀子の墓。
円墳形式で夫婦の墓が並んでいます。
歴代天皇陵が質素である事に感動し、
これに倣った為にこのようになったという。
慶喜は水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男で、
江戸に生まれながら水戸で育てられ、
将軍徳川家慶の意向によって一橋家を相続。
家慶の死後に跡を継いだ徳川家定が、
病弱で継嗣が見込めなかった為、
父や島津斉彬一橋派に推されてますが、
井伊直弼南紀派徳川慶福を推し、
将軍継嗣問題で双方が対立します。
やがて井伊が大老に就任し、
南紀派が勝利して継嗣は慶福に決定。
安政の大獄が発生して慶喜は謹慎となり、
桜田門外の変で井伊が暗殺された後に、
やっと謹慎が説かれました。
その後は将軍後見職に就任しており、
上洛して国政の諸案件を朝廷との交渉。
後に禁裏御守衛総督に就任し、
禁門の変では自らの指揮で戦闘に参加し、
戦後は松平容保松平定敬と連携します。
江戸とは一定の距離を保ちながら、
京都の幕府勢力を代表していましたが、
第二次長州征伐の失敗の他、
孝明天皇、将軍徳川家茂の死去が相次ぎ、
15代将軍に就任して改革を行いますが、
時流が討幕に傾いていた為、
大政奉還を行って逆転を狙います。
しかし王政復古の大号令により充ては外れ、
新政府が樹立されて窮地となり、
江戸での薩摩藩邸焼き討ち事件を経て、
鳥羽伏見の戦いが勃発。
旧幕軍は新政府軍に敗北して大坂城に退き、
慶喜は兵を置いて大坂城を脱出し、
開陽丸で江戸に戻りました。
その後は謹慎して徹底して恭順を貫き、
水戸での謹慎を命じられて移動しますが、
水戸藩では激しい内訌戦の最中であり、
静岡での謹慎に変更されています。
謹慎の解除後も静岡で暮らし、
明治30年に東京に移住しており、
大正2年に死去しました。

正室の美賀子は今出川公久の娘で、
慶喜が婚約していた一条家の娘照姫が、
疱瘡によってあばた顔になってしまった為、
代役として一条家の養女となり、
慶喜の正室となりました。
慶喜は京都で活動した為に別居が多く、
御台所となっても大奥へは入っていません。
その後、慶喜は静岡で隠居生活に入り、
明治2年になって美賀子も静岡に移住し、
慶喜と暮らしていましたが、
明治27年に乳癌で死去しています。

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