東京都港区 増上寺/徳川将軍家墓所①

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増上寺は港区芝にある浄土宗大本山
空海の弟子宗叡貝塚光明寺を建立し、
室町時代真言宗から浄土宗に改宗して、
寺名を増上寺と改めたとされています。
三河松平家と繋がりがあったようで、
徳川家の菩提寺となっています。
後に貝塚から日比谷と移転し、
現在地には慶長3年(1598)に移転。
江戸城裏鬼門の位置にあたるという。


三解脱門」。
元和8年(1622)建立の三解脱門
3つの煩悩から、
この門をくぐれば解脱出来るという。
空襲の被害を免れた数少ない建物のひとつ。


大殿」。
大殿は空襲によって焼失しており、
現在のものは昭和49年の再建。
大本山の本堂として堂々たる威厳です。
本尊は室町期の阿弥陀如来像


安国殿」。
平成22年に再建された新しい御堂。
黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像を祀ります。
この黒本尊は元々は金色の仏像でしたが、
長い間の香煙で黒ずんだという。
清和源氏の守り本尊であったとささ、
源義朝の死後に平家が持っていましたが、
平清盛によって常盤御前に与えられました。
常盤御前は鞍馬の牛若丸にこれを与え、
牛若丸が陸奥へ赴く際に三河の長者に預け、
その長者が明眼寺を建立して祀り、
後の世に徳川家康に譲られたものという。

増上寺には6人の将軍が葬られています。

徳川将軍家墓所」。
安国殿の裏手にある徳川将軍家の墓所。
拝観冥加料は大人500円です。


墓所内部」。
本来は裏手に広がる広大な墓所でしたが、
空襲で霊廟の殆どが消失しており、
現在は石造りの宝塔が集められています。


崇源院宝塔」。
2代将軍徳川秀忠(台徳院殿)と、
御台所お江の方(崇源院殿)の墓。
台徳院宝塔は空襲で破壊されてしまった為、
崇源院宝塔に夫妻が合祀されています。
秀忠は徳川家康の三男として生まれますが、
長兄の徳川信康は切腹しており、
次兄結城秀康豊臣秀吉の養子となった為、
実質的な世子として遇されました。
織田信雄の長女小姫と祝言していますが、
小姫は早世して正式な婚姻には至らず、
後にお江の方と再婚しています。
家康が隠居すると2代将軍となりますが、
実質的には家康の意を汲んだ政治が行われ、
家康の死後に親政が行われたとされ、
旧臣らと幕府の基礎を築きました。
お江の方は浅井長政の三女で、
母は織田信長の妹であるお市の方
佐治一成豊臣秀勝との婚姻を経て、
3度目の婚姻で秀忠の室となっています。
3代将軍となった徳川家光を産んでおり、
御台所将軍生母となったのは彼女のみ。


文昭院宝塔」。
6代将軍徳川家宣(文昭院)と、
御台所である近衛熙子(天英院)の墓。
3代家光の三男徳川綱重の長男に生まれ、
男子のいない5代徳川綱吉の世嗣となり、
養父の死去に伴い家督を相続しました。
生類憐れみの令等の先代の悪法を廃止し、
新井白石らを登用し文治政治を行いますが、
在職僅か3年で死去しています。


有章院宝塔」。
7代将軍徳川家継(有章院)の墓。
6代家宣の四男として生まれ、
家宣の死去により僅か4歳で将軍となり、
先代側近であった新井白石らにより、
幕府の運営が行われましたが、
僅か3年で病死しています。
子供ながらに聡明であったという。

つづく。
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