東京都港区 増上寺/徳川将軍家墓所②

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つづき。


惇徳院宝塔」。
9代将軍徳川家重の墓。
紀州藩5代徳川吉宗の長男として生まれ、
父が将軍となった事で継嗣となりますが、
病弱で言語障害もあったとされ、
側近の大岡忠光のみがこれを理解し、
大岡越前忠相とは別家。
皆にその意志を伝えていたという。
その為か大岡が死去すると隠居しています。


慎徳院宝塔」。
12代将軍徳川家慶(慎徳院)の墓。
11代将軍徳川家斉の次男として生まれ、
父家斉の隠居により家督を継ぎますが、
家斉は大御所として実権を握っており、
親政は家斉の死後になってからでした。
水野忠邦による天保の改革を進めた他、
海防強化を諸藩に命じるなどしていますが、
ペリー艦隊来航騒動の最中に死去。


昭徳院宝塔」。
14代将軍徳川家茂(昭徳院)の墓。
清水徳川家3代徳川斉順の次男に生まれ、
父が紀州藩11代藩主となった後、
12代藩主徳川斉彊の早逝を経て、
僅か4歳で紀州藩13代藩主に就任。
その後の将軍継嗣問題南紀派に擁立され、
14代将軍となっていますが、
藩主就任から将軍就任まで江戸暮しでした。
和宮親子内親王を正室に迎えており、
文久3年には徳川家光以来の上洛を行い、
参内して孝明天皇に攘夷を約束した他、
一橋慶喜らと賀茂行幸に参加しています。
その後に2度も上洛していますが、
第二次長州征伐の最中に大坂城で倒れ、
そのまま死去しています。


静寛院宮宝塔」。
14代将軍御台所和宮親子の墓。
仁孝天皇の第八皇女として生まれ、
有栖川宮熾仁親王と婚約していましたが、
幕府が朝廷に降嫁を奏請した為、
14代将軍家茂の許で嫁ぎました。
和宮はこの縁談を固く辞退したようですが、
孝明天皇の再三の説得を受けて承諾。
降嫁の際に内親王宣下を受けた為、
夫である将軍より高い地位となっています。
夫婦仲は良好であったとされますが、
長州征伐の最中に家茂は大坂で病死。
同年に兄である孝明天皇も崩御しており、
悲しみが二重に重なっていますが、
王政復古後の徳川家存続に尽力し、
明治2年に京都に戻っていましたが、
明治天皇の勧めで東京に移住しました。
程なくして脚気を患ったようで、
治療の為に箱根温泉に滞在しますが、
そのまま明治10年に死去しています。
遺言によって家茂の側で葬られたという。


合祀塔」。
空襲の破壊や墓地縮小で合祀された為、
9代家宣の側室月光院(左京の局)の石塔を、
徳川将軍家の合祀塔としてたもの。
家宣の実父徳川綱重(清揚院)、
5代徳川綱吉の生母桂昌院(お玉の方)、
11代家斉の正室広大院(近衛寔子)、
13代徳川家定の正室天親院(鷹司任子)、
家宣の側室月光院(お喜世の方)、
家斉の側室契真院(お万の方)、
12代家慶の側室見光院(お金の方)、
同じく12代家慶の側室殊妙院(お筆の方)。
他に将軍家墓所にあった墓の子女らが、
ここに集められて合祀されました。

増上寺近隣に現存の門が移築されています。

旧台徳院霊廟惣門」。
2代徳川秀忠の霊廟にあった惣門で、
ザ・プリンスパークタワー東京敷地に移築。


旧有章院霊廟二天門」。
7代徳川家継の霊廟にあった二天門で、
東京プリンスホテル敷地内に移築。

この他に埼玉県所沢の狭山不動尊敷地内に、
台徳院の勅額門丁子門御成門があり、
焼け残った建物全て国重文となっています。

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