知覧城は知覧町永里にあった中世山城。
平安末期の郡司知覧忠信による築城で、
文和2年(1358)に足利尊氏が佐多忠光に与え、
※佐多忠光は島津家4代島津忠宗の三男。
文保2年(1318)に大隅国佐多を与えられ、
佐多姓を名乗った。
以降は長らく佐多家がこの地を支配しました。
一時伊集院氏に奪われるものの、
後に取り返されて佐多家がこれを領有。
佐多家が島津姓の名乗りを許されてからも、
幕末まで支配が続いています。
但し知覧城は11代当主佐多久達の頃に、
火災で焼失してしまい放棄。
居館として御仮屋が建てられました。
知覧城跡には以降殆ど手が加えられず、
建築物は燃えてないものの、
曲輪や堀切等の城割りは現状を保っています。
「堀切」。
駐車場に車を停めて堀切から登城。
知覧城中心部の4つの城(曲輪)へ。
本丸、蔵之城、今城、弓場城と、
大きく4つの曲輪があります。
少し行くと本丸と蔵之城側、
今城と弓場城側の分かれ道となり、
まずは本丸と蔵之城側へ。
エントランスのような場所ですが、
名前は付けられていません。
ここから本丸と蔵之城に分かれます。
写真正面は本丸の登城口。
「本丸跡」。
70m四方に広く削平されており、
周囲に土塁が積まれた本丸跡。
一端エントランス(?)まで下りて、
隣の蔵之城へ。
「蔵之城跡」。
蔵之城では掘立柱の建物跡が見つかり、
明やジャムの青磁や白磁、染付の皿、
碗、瓶、茶壷、茶入、甕等、
陶磁器の破片が多数出土しています。
更に硯、碁石、かんざし、鉄釘や、
青銅製十一面観音菩薩像も出土。
他ではこれ程見つかっていない模様。
今城と弓場城側へ。
こちらはエントランス(?)はなく、
そのまま道が分かれています。
「今城跡」。
本丸と同じくらい広さがあります。
「弓場城跡」。
こちらは少し狭いようですが、
今城と同様に長細い形状。
以上が主曲輪となっていますが、
周辺に式部殿城、児城、東之栫、
西之栫、南之栫、伊豆殿屋敷等、
多数の出城が知覧城を構成しており、
合計して45万㎡の面積を誇ります。
続日本100名城。
■関連記事■
・鹿児島県南九州市 知覧御仮屋跡
一所持知覧島津家の屋敷跡。
・宮崎県宮崎市 佐土原城跡
続日本100名城。
・大分県臼杵市 臼杵城跡
続日本100名城。