曹渓寺は港区南麻布にある臨済宗の寺院。
元和9年(1623)に赤坂で創建されて、
承応2年(1654)に現在地に移転したようで、
開山の絶江紹堤和尚に因み、
近くの坂に絶江坂の名が付けられています。
「曹渓寺」。
赤穂浪士で唯一生き残った寺坂吉右衛門が、
寺男となって寄寓していた事で知られます。
墓所への入山は基本的に檀家のみで、
一般の人は入る事が出来ませんが、
許可を得て特別にお参りさせて頂きました。
「曹渓寺墓所」。
墓所の中央に並ぶ三基の巨大な宝篋印塔。
手前から、
雅楽頭宗家の酒井忠世室(榊原康政長女)で、
この曹渓寺を開基した聖興寺の墓。
沼田藩2代真田信吉の正室松仙院の墓。
そして真田信之の墓。
「徹岩一洞大居士神儀」。
松代藩初代藩主真田信之の供養塔。
戦国随一の戦術家真田昌幸の長男に生まれ、
主従する武田家の人質として過ごしており、
織田信長によって武田家が滅亡すると、
父昌幸は諸勢力へ従属と転身を繰り返し、
小領の真田家を存続させます。
後に豊臣秀吉に次男真田信繁を出仕させ、
徳川家康に信之を出仕させており、
関ケ原では昌幸と信繁が西軍に着いた事で、
双方は袂を分かつ事となり、
父と弟は配流となっていますが、
信之の必死の嘆願で死罪は免れました。
家康から旧領を与えられ上田藩を立藩し、
後に沼田を本拠として沼田藩となり、
弟が活躍した大坂の陣には不参加でしたが、
その後に松代藩に加増転封。
長男の信吉に沼田を分知していますが、
信吉は父に先立って死去しています。
信吉の室松仙院は酒井忠世の次女のようで、
酒井家の菩提寺であったこの曹渓寺に、
義父信之の供養塔を建立したようです。
曹渓寺は酒井家の他に牛久藩山口家や、
麻布山内家の菩提寺でもあったようで、
両家の累代墓が建てられています。
「山口家先祖代々」。
牛久藩山口家の初代から12代藩主及び、
13代以降の当主、正室や子女の累代墓。
元々はそれぞれに墓碑があったようですが、
空襲や都市開発で合葬されたのでしょう。
初代藩主山口重政は織田信雄に仕え、
豊臣秀吉による信雄の改易で浪人となり、
後に徳川秀忠の家臣となっています。
関ケ原の戦いでの戦功で大名となりますが、
大久保忠隣との無断縁組を咎められて改易。
後の大坂夏の陣で再興を志し、
井伊直孝勢に従軍して奮戦しており、
長男と次男を戦死させています。
この功で後に再興が叶い、
以後は幕末まで牛久藩として続きました。
幕末の藩主は11代藩主山口弘敞と、
12代藩主山口弘達ですが、
弘敞は文久2年に死去しており、
僅か3歳の弘達が家督を相続した為、
藩政は重臣らによって運営。
鳥羽伏見の戦いの後に新政府に恭順し、
戊辰戦争に50名の藩兵を出しています。
「山内家累代之墓」。
土佐新田藩山内家(麻布山内家)の累代墓。
こちらも合葬されているようですが、
墓所は不自然に広くなっています。
土佐藩2代山内忠義の四男山内一安が、
4代将軍徳川家綱の小姓となり、
3000俵を与えられて別家を創設。
幕府の旗本寄合席に列して4代続き、
4代山内豊産が藩から1万俵を分与され、
1万3000石で土佐新田藩を立藩しました。
蔵米支給の定府大名であったようで、
麻布古川町に上屋敷があった事から、
麻布山内家と呼ばれました。
幕末の藩主は5代藩主山内豊福と、
6代藩主山内豊誠。
豊福は鳥羽伏見で敗走した徳川慶喜に、
土佐の策略に嵌ったと非難され、
また土佐藩から上洛を命じられてた為、
幕府と本藩の板挟みとなってしまいます。
豊福は窮地に陥って継室と共に自害し、
土佐藩はこれを隠して豊誠に跡を継がせ、
そのうえで豊福の死を公表しました。
「寺坂信行逸事碑記」。
山内家墓所脇にある寺坂吉右衛門の顕彰碑。
赤穂浪士唯一の生き残りであった寺坂は、
討ち入り後に泉岳寺へ行かずに離脱。
足軽であった為か罪に問われず、
本多平八郎宗家家臣伊藤治興に奉公し、
後に曹渓寺の寺男となり、
檀家であった麻布山内家に仕官しています。
83歳まで長生きしたようで、
曹渓寺に葬られて墓もあるそうですが、
これは発見できませんでした
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・群馬県前橋市 龍海院①/姫路藩酒井家墓所
酒井雅楽頭家宗家の墓所。
・和歌山県九度山町 善名称院/真田昌幸墓所
信之の父真田昌幸の墓所。