和歌山県九度山町 善名称院/真田昌幸墓所

幕末とは関係ありませんが、
九度山真田庵に行ってみました。

関ケ原の戦いの前哨戦で上田城に籠城し、
徳川秀忠を翻弄した真田昌幸
しかし本戦は東軍徳川家康が勝利した為、
最早西軍に勝ち目はないと降伏します。
家康が昌幸と次男真田信繁を死罪とすると、
東軍として戦った長男真田信幸や、
信幸の舅本多忠勝が助命を嘆願した為、
2人は高野山への配流となりました。
程なく高野山から麓の九度山へ移り、
昌幸と信繁の屋敷が建てられて、
九度山での蟄居生活が始まります。
生活費は長男の信之(信幸から改名)や、
和歌山藩からの援助を受けていますが、
生活には困窮していたようで、
援助金の催促は20余を越えたという。
昌幸は10年の蟄居生活の後に死去。
後に次男の信繁は大坂城へ入り、
日本一の兵と称される事となります。


善名称院(真田庵)」。
信繁が戦死して大坂夏の陣が終わった後、
昌幸と信繁の屋敷は破壊されますが、
後の寛保元年(1741)に大安上人が、
昌幸の屋敷跡地に善名称院を建立しました。
後に真田幸村人気で観光地化し、
真田庵と通称されています。

ちなみに真田幸村は信繁の事ですが、
寛文12年(1672)に刊行された難波戦記で、
左衛門佐幸村として登場した事で、
江戸時代中期で以降広く知られました。
よって幸村の名は偽りなのですが、
幕府から問い合わせに松代藩真田家は、
信繁が大坂城入場後に名乗ったと回答。
大河真田丸のくじで決めたエピソードは、
創作ですが個人的に好きです。
九度山では幸村で統一されていました。


本堂」。
八棟造本堂
櫓っぽい造りがいい感じです。


真田地主大権現」。
善名称院に怒りの表情の見せた昌幸の霊が、
度々現れるようになった為、
開山の大安上人が昌幸の霊を祀ったところ、
穏やかな表情の昌幸が現れて、
お礼にこの地を守ると約束したという。


眞田昌幸公之墓」。
昌幸の遺体は家臣河野清右衛門らにより、
火葬にされたとされており、
分骨が上田の信之の許へ運ばれたという。
またここにあった松の木の根本に、
信繁が昌幸の遺骨を埋葬し、
森の中に密かに宝篋印塔を建てたとされ、
後に大安上人が松の根本に宝篋印塔を運び、
現在の状態となったとされます。


雷封じの井戸」。
屋敷に落ちた雷を幸村が取り押さえ、
この井戸に封じたという。
いくらなんでもそれは・・という話ですが、
それ程までに神格化されていたのでしょう。
ちなみにこの雷は我々の思うものではなく、
雷神の類だと思われます。

善名称院を出て真田ミュージアムへ。

九度山真田ミュージアム」。
大河真田丸を記念して建設された資料館。
昌幸、幸村、大助の三代の軌跡を紹介。
真田忍者の企画展を開催していました。
大助とは信繁の嫡男真田幸昌の事で、
父信繁と共に大坂城へ入城し、
夏の陣道明寺の戦いで首級を挙げますが、
その後は父の命で豊臣秀頼の傍附となり、
大坂城落城の際に秀頼に殉死。
昌幸の墓の後ろには慰霊墓もあります。

ミュージアムを出て真田の抜け穴へ。

真田古墳(真田の抜け穴)」。
ここから大坂城まで抜け穴が掘られ、
幸村はここから戦場に出向いたとされます。
これも「いくらなんでも・・」ですが、
まあ伝説ですので。
実際は古墳時代横穴式石室の古墳です。

最後に道の駅柿の郷くどやまへ。
九度山は富有柿の産地ですので、
家族へのお土産に買って帰りました。

道の駅構内の世界遺産情報センターに、
信繁の甲冑のレプリカが飾ってありました。
赤備えはかっこいいですよね。
残念ながらこれは後世のデザインですが、
信繁が部隊を赤備えにしたのは事実で、
天王寺口の戦いで家康本陣を強襲し、
家康にとっては三方ヶ原の戦い以来の、
本陣突き崩しを喰らっており、
これが日本一の兵と称賛されるに至ります。

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