初代藩主鍋島勝茂の八男鍋島直弘は、
重臣成富茂安の養子となりますが、
茂安より1000石の分与を受けて独立。
島原の乱への出陣等を経て加増され、
後に鍋島姓に復姓しました。
知行地の白石に屋敷を構えた為、
白石鍋島家と呼ばれるようになり、
後に御親類筆頭となっています。
「本行寺」。
本行寺への訪問は2度目。
ここある江藤新平の墓所を訪問しましたが、
当時はそれだけで帰っています。
今回は白石鍋島家の墓所が目的。
「白石鍋島家墓所」。
かなり大きなスペースの墓所。
流石は御親類筆頭の墓所です。
「盛徳院殿天真日玄大居士」。
白石鍋島家初代当主鍋島直弘の墓。
墓所の一番奥に聳えています。
上記のように直弘は茂安の養子となりますが、
茂安は直弘を継嗣とするつもりはなく、
良き武士に育てる為に養育したようです。
その甲斐あって直弘は立派に育ち、
2代藩主鍋島光茂の和歌への執心を諫めたり、
龍造寺一門等の家臣団の統率に貢献。
死去の際には家臣36名が殉死を決意し、
これを知った光茂に止められています。
因みにこの話を紀州藩2代徳川光貞を聞き、
光茂が無益の死を禁じたことを賞賛。
これがやがて幕府にも伝わって、
寛文3年(1665)に殉死の禁止が定められます。
「〇〇〇〇〇静桓日運居士」。
2代当主鍋島直堯の墓。
※墓碑銘は風化で読めません。
初代直弘の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
家臣団をよく統率して藩主より信任を受け、
56年の長期間当主を務めています。
隠居後の5代藩主鍋島宗茂の治世では、
側役有田八右衛門の専横と失政に対し、
家臣らと謀って宗茂の許可無く罷免を断行。
宗茂に叱責されていますが罷免は覆らず、
以後の藩政は請役中心に回帰しました。
「霊眞院殿静徹日長大居士(右)」、
「〇〇院殿妙久日〇大姉(左)」。
3代当主鍋島直愈の墓と正室美濃姫の墓。
2代直堯の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
上記の有田罷免には父と共に主導し、
父と同様に叱責されました。
隠居後に諫早騒動が勃発すると、
直愈が諫早家中の仲裁を担当。
これが失敗して大規模な一揆となり、
多くの者が断罪されるに至りますが、
失敗した直愈も叱責を受けています。
「大寛院殿義貞日雄大居士(左)」、
「天蕐院殿滿香日養大姉(右)」。
4代当主鍋島直右の墓とその正室の墓。
3代直愈の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
父直愈が諫早騒動を担当して失敗しますが、
当主である直右は関与していません。
28年の当主在任の後に死去。
「光賢院殿以文日修大居士(右)」、
「仙〇院殿錦水日清大姉(左)」。
5代当主鍋島直賢と正室加姫の墓。
4代直右の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
佐賀郡代や藩校弘道館頭人を務め、
領内で白石焼を開始しています。
正室加姫は歌人として知られていたという。
「自得院殿可然日悠大居士(左)」、
「妙〇院殿芳輝日韶大姉(右)」。
6代当主鍋島直章の墓と正室變姫の墓。
5代直賢の子として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
御側頭有田権之允が藩政を牛耳った為、
重臣らと共に江戸へ出向いて有田を捕らえ、
国元に護送して切腹させています。
その後の財政再建を託されていますが、
世子鍋島斉正(直正)が将軍の娘を娶った為、
莫大な費用が必要となって更に悪化。
これに蔵方役人中牟田三左衛門が、
独断で藩札を発行して騒動となり、
中牟田が切腹する事件が発生。
直章も関与を疑われ隠居しています。
「文昌院殿道琮日澄大居士(左)」、
「容光院殿妙真日報大姉(右)」。
7代当主鍋島直喬の墓とその正室の墓。
6代直章の嫡男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しました。
前藩主鍋島斉直が江戸での隠居を望み、
その江戸行きが財政難で延期された為、
激怒した斉直により閉居処分されています。
「忠純鍋島直暠之墓(右)」、
「直暠室村田氏之墓(左)」。
8代当主鍋島直暠の墓と正室麟姫の墓。
7代直喬の子として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
10代藩主直正に従い藩財政の再建と、
軍備の近代化に尽力しています。
明治16年に死去。
白石鍋島家の家督は順調に引き継がれ、
初代当主鍋島直弘の男系が続いています。
現在ももちろん続いているとのこと。
これは意外に珍しい事ですね。
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