龍泰寺は赤松町にある曹洞宗の寺院。
龍造寺隆信が少弐氏の居館跡に建立し、
寺名には龍造寺安泰の意味があるという。
隆信は自ら縄張りを行っており、
戦の合間に頻繁に参禅に来ていたという。
隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、
4世太圭和尚は戦場へ急行して遺体を回収。
諌早の和同寺で荼毘に付して持ち帰り、
龍泰寺に埋葬していましたが、
天正16年(1588)に宗龍寺に改葬。
同所にあった夫人や龍造寺政家の墓も、
明治4年に高傳寺に移されており、
現在は村田家の墓が残されています。
「龍泰寺」。
龍泰寺の訪問は2度目。
境内にある大隈重信の墓所を訪問しました。
墓所は本堂の西側。
荒れていて近づく事が出来ず、
カメラを望遠にして撮影しました。
初代当主村田安良の墓や、
2代当主村田氏久の墓は見当たらず。
3代以降の墓が残っているようです。
「流水院殿露山性玉大居士」。
3代当主村田政辰の墓。
白石鍋島家初代鍋島直弘の子で、
2代氏久の養嫡子となって家督を相続。
59年の長期間当主を務めています。
「養高院殿清眼寂明大居士」。
4代当主村田政盛の墓。
2代藩主鍋島光茂の子でしたが、
3代政辰の養子となっており、
養父の死去に伴い家督を相続しました。
当主在任中は長く佐賀郡代等を務め、
享保18年(1733)に死去しています。
「大中院殿盡一燈大居士
天龍院殿廓雲淨随大姉」。
4代政盛の養嫡子村田政式と正室禮姫の墓。
白石鍋島家からの養子でしたが、
養父に先立ち家督相続前に死去しています。
「寛厚院殿徳巖宗潤大居士(左)」、
「璞樹院殿徳質圓明大姉(右)」。
5代当主村田政賢の墓と正室孝姫の墓。
養嫡子であった政式の嫡男で、
祖父の死去に伴い家督を相続しました。
佐賀郡代や馬究役を務め、
49年の当主在任後に死去。
「歓昌院殿澤雲宗澍大居士(左)」、
「桃雲院殿瑤嶽淨長大姉(右)」。
6代当主村田政致の墓と正室登姫の墓。
5代政賢の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
8代藩主鍋島治茂の信任が篤かったようで、
治茂は久保田の村田屋敷を訪問した際、
その屋敷を謀野樓と名付けています。
12年の当主在任後に死去。
7代は諫早家からの養子村田政敏が相続。
しかし実兄諫早敬輝が病で廃嫡となった為、
家督を辞して実家に帰っています。
「英昌院殿傑心宗雄大居士(左)」、
「松翠院殿眞操貞節大姉(右)」。
8代当主村田政恒の墓と正室伊壽姫の墓。
須古鍋島家9代鍋島茂偏の子で、
7代政敏が家督を辞して実家へ帰った為、
代わって村田家の家督を相続しています。
相続方頭人、御政務総心遣等を務め、
藩政の中枢を担っていましたが、
藩内抗争で失脚して隠居しました。
後に再家督して藩政改革に貢献し、
弘化3年に死去しています。
市内久保田の大雲寺にも村田家墓所があり、
9代当主村田政矩の墓もあるようです。
龍泰寺には他にも不明な墓があるのですが、
戒名を見ると初代や2代ではない模様。
※墓碑銘は俊徳院殿、龍昌院殿。
初代の戒名は大乗院殿、2代は智廣院殿。
10代村田政匡の墓と思われますが、
手元資料は7代までなので断定出来ません。
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