龍雲寺は佐賀市八戸にある曹洞宗寺院で、
天文元年(1532)に龍造寺家純が建立。
境内は於保氏の居館跡(八戸城跡)という。
ここに葉隠の口述者山本常朝の墓があります。
「本堂」。
広い敷地に立派な本堂。
「山本家墓所」。
龍運寺墓地にある山本家の墓所。
山本家は八戸宗暘の子孫とされており、
宗暘の妻は竜造寺隆信の姉でしたが、
神代勝利と組んで隆信に反抗しており、
居城の八戸城を落とされています。
その際に宗暘の妻子が捕らえられており、
姉であった妻や女子は許されますが、
隆信は男子である飛車松は殺せと指示。
これを隆信の母慶誾尼が助命して助け、
救われた飛車松は後に山本宗春を称し、
山本家の祖となりました。
常朝はこの宗春の孫にあたります。
「旭山常朝菴主」。
山本常朝の墓。
常朝は山本神右衛門重澄の次男に生まれ、
2代藩主鍋島光茂の小姓となります。
御書物役、書写物奉行等を務め、
光茂の側近として30余年仕えており、
和歌を好む光茂の為に古今伝授取得に奔走。
隠居後に死の床についた光茂にこれを届け、
冥土の土産と光茂を喜ばせました。
光茂の死後は朝陽軒(後に宗寿庵)に隠棲。
そこに田代陣基がやって来て、
葉隠の口述と筆記が開始されました。
後に光茂の側室霊樹院が同地に隠棲し、
法華経一千部を自読して追善供養した為、
常朝はこれに遠慮して大小隈に移りますが、
田代もそこを訪ねて筆録を続け、
葉隠全11巻を完成させました。
常朝はその後に享保4年(1719)に死去。
大小隈の庵前で野焼された後、
ここに埋葬されています。
「山本常朝先生葉隠祖述記念之碑」。
葉隠を始めて活字化した中村郁一により、
昭和16年に建立された記念碑。
中村は明治39年に「葉隠」を刊行し、
明治天皇に献上しています。
これは全11巻を1/5程度に纏めたもので、
明治44年に「鍋島論語葉隠」として再販。
後に肥前出身の軍人達の戦死が、
葉隠精神としてもてはやされるに至り、
葉隠は軍国主義的書物の烙印を押されます。
勿論これは大きな誤りであり、
近年には再評価されてはいる模様。
常朝は上記したように光茂の側近で、
どちらかといえば文人タイプの人物。
戦に出た事も人を斬った事もありません。
このような文人もその精神を聞けば、
毎朝毎夕常に死を覚悟して行動し、
武士として生きていく気概を持っている。
そういう事が重要なのではないでしょうか?
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