長崎県長崎市 大音寺坂

長崎市賑町にある大音寺坂の名称は、
かつて坂上に大音寺があった事に由来。
元々坂上にはミゼリコルディア本部があり、
キリシタン福祉施設となっていましたが、
後のキリシタン弾圧で破壊されたようで、
その跡地に大音寺が建立されました。
寛永15年(1638)に大音寺は移転し、
天満宮が置かれて天満坂ともよばれますが、
大音寺坂の呼称で定着しています。


大音寺坂」。
当時の石段が残る大音寺坂。
この坂は喧嘩坂とも呼ばれたようで、
長崎喧嘩」発端の舞台となっています。
元禄13年(1700)12月19日昼。
深堀鍋島家筆頭家老深堀三右衛門と、
甥の志波原武右衛門の両名が、
雪の降る本博多町の大音寺坂辺りを歩き、
三右衛門が杖に付いた雪泥を払いました。
それが会所役人髙木彦右衛門の使用人で、
惣内という名の者にかかってしまった為、
二人はこれを詫びますが、
惣内は許さず口論となります。
この口論は居合わせた第三者の仲裁で、
一旦収まったかに思われましたが、
惣内は髙木家の使用人10数人と共に、
夕刻に深堀鍋島家の蔵屋敷を襲撃。
三右衛門と武右衛門を襲って暴行を加え、
屋敷に居合わせた者にも暴行し、
大小の刀を奪って帰りました。
この蛮行に深堀鍋島家側も激怒し、
深堀領より10名の家臣が駆け付け、
髙木家の屋敷に押し寄せて、
襲撃した連中を差し出せと詰め寄ります。
当主彦右衛門は低姿勢で謝罪しますが、
襲撃者の差し出しには応じませんでした。
深堀側は一旦深堀屋敷に戻った後、
翌20日未明に12名で髙木邸に討ち入り、
当主彦右衛門、当事者の惣内、
他に用心棒の剣客ら9名を討ち取って、
彦右衛門の首を掲げて引き上げます。
後から9名の応援も駆け付けますが、
既に彦右衛門は討ち取られていた為、
戦闘には参加せずにそのまま帰還。
三右衛門は髙木邸の玄関で、
武右衛門は大橋(現在の鐵橋)で切腹し、
佐賀藩長崎聞番伊香賀利右衛門により、
事件が長崎奉行所に報告されました。
これが「長崎喧嘩」の内容ですが、
事件は赤穂浪士討入の1年前であり、
大石内蔵助はこの事件を手本として、
討入を行ったともされていますが、
大石らは綿密な計画を立てており、
即刻報復をおこなっていません。
また赤穂事件赤穂藩が取り潰され、
浪士となったうえでの討ち入りであり、
当事件は穏便に済ます事も可能でした。
どちらがどうとはいえませんが、
両者は似て非なるものといえます。

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