長崎県長崎市 菩提寺/深堀鍋島家墓所

菩提寺は長崎市深堀町にある曹洞宗寺院。
寛喜元年(1229)に三浦能仲が創建し、
始めは真言宗の寺だったようですが、
後に天台宗に改宗されており、
更に再び真言宗となってから、
現在の曹洞宗に改められたとのこと。


本堂」。
本尊の薬師如来坐像を祀る本堂。
曹洞宗では晧臺寺に次ぐ寺格を持つ寺で、
山号は三浦氏発祥の地三浦荘金谷に因み、
金谷山となっています。
開基の三浦能仲は領主深堀氏の祖とされ、
歴代の領主の菩提寺となっており、
深堀鍋島家となってからも、
歴代の墓所となりました。

三浦氏の庶流であった和田仲光は、
上総国伊南荘深堀を領していた為、
後に深堀姓を名乗っており、
承久の乱後に摂津国吉井荘を拝領。
仲光の次代深堀能仲は、
その恩賞地の変更を幕府に求め、
肥前国彼杵荘戸八浦が充てられます。
ここに能仲の子深堀時光が派遣され、
この時光の系譜が代々この地に在住。
地名も深堀と呼ばれるようになったようで、
後に長崎貿易船関税を要求し、
これを拒否すると積荷を奪っていたという。
戦国時代の当主深堀純賢は、
龍造寺隆信鍋島直茂に従属。
直茂の外戚石井忠俊の娘を継室とし、
その連れ子を養子に迎えました。
これが深堀鍋島家初代鍋島茂賢となります。


深堀鍋島家墓所」。
境内墓地にある深堀鍋島家の墓所。
中央奥に累代墓を配し、
左右に歴代当主が並んでいます。


恭法院殿浄信囧正大神儀」。
初代当主鍋島茂賢の墓。
龍造寺家重臣石井信忠の次男に生まれ、
聡明で武勇にも優れていたという。
母の再婚により茂賢の養子となり、
朝鮮の役には養父に代わって参加し、
抜群の働きを魅せたようです。
後に鍋島直茂より鍋島姓を与えられ、
深堀領6000石の領主となりました。
正保2年(1645)に死去していますが、
石井家の菩提寺妙玉寺に葬られたようで、
この墓は孫の鍋島茂春が建てたもの。

以下、歴代の詳しい経歴は不明。

長源院殿法圓日能 大神儀(右)」、
壽正院殿元陽慧春大姉(中)」、
一夢軒大安元槐居士(左)」。
2代当主鍋島茂里の墓、壽正院の墓、
5代当主鍋島茂厚の墓。
2代茂里は初代茂賢の長男ですが、
茂賢の兄で横岳鍋島家の初代と同名。
隣の壽正院は誰かの奥方と思われますが、
誰の奥方かよくわかりません。


福山壽芳居士(左)」、
心空軒泰叟淨嶽居士(右)」。
3代当主鍋島茂春の墓、
4代当主鍋島茂久の墓。
3代茂春は菩提寺を菩提寺に戻しており、
4代茂久の代に長崎喧嘩が発生しています。


鷲仙院殿泪睡〇〇居士(左)」、
高樹院殿活祥日遥居士(右)」。
6代当主鍋島茂陳の墓、
8代当主鍋島茂矩の墓。


本覺院殿照山日空居士(右)」、
〇〇院殿賢徳日量太神儀(左)」。
7代当主鍋島茂雅の墓、
9代当主鍋島茂長の墓。


大寛院殿〇山日要居士」。
10代当主鍋島茂勲の墓。
正室區姫多久茂澄と不倫していますが、
藩主鍋島直正の妹であった為、
お咎めは無かったようです。
※茂澄は謹慎のうえ知行召し上げ。
 多久家は嫡子多久茂族が再興。


11代当主鍋島茂精は累代墓。
戊辰戦争では六番大隊長として出陣し、
藩の軍艦孟春丸仙台に赴いており、
東北各地を転戦しています。
大正3年、死去。

親類親類同格以外となると、
歴代の治績資料も殆どありません。
挙句に10代茂勲に至っては、
不倫された程度の事しかわからず、
可哀想な感じになってしまいました。
長崎を震撼させたフェートン号事件では、
佐賀藩家老以下7名が切腹しており、
この中に家老の深堀豊前もいます。
これは6~10代の誰かと思われますが、
調べてもよくわかりませんでした。

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