築地反射炉は佐賀藩が設置した反射炉で、
海防の必要性が高まっていた時勢に、
鉄製大砲を鋳造する為に築造されたもの。
嘉永3年に日本初の実用炉として完成し、
翌年に初めて鉄製大砲が鋳造されています。
佐賀藩10代藩主鍋島直正(閑叟)は、
西洋の科学技術の導入を積極的に行い、
また長崎警備を担当していた為に、
諸外国への危機感をっていました。
直正は幕府に海防の必要性を献策しますが、
却下された為に独自に海防強化を進め、
砲台増設と鉄製大砲の生産を図り、
反射炉を築く事となります。
直正は砲術研究を行う火術方を分割し、
大砲製造を行う大銃製造方を新設。
本島藤太郎を責任者に任命し、
副長に杉谷雍介と田中虎太郎を充て、
和算家馬場栄作、鋳工頭梁谷口弥右衛門、
刀鍛冶橋本新左衛門、会計田代孫三郎が、
反射炉の研究開発に従事しました。
※御鋳立方七賢人。
また韮山代官の江川英龍にも協力を求め、
本島を韮山の江川塾に派遣。
嘉永3年7月に反射炉築造が開始され、
同年11月に初号炉が完成し、
12月に初の試験鋳造が行われましたが、
良い結果が得られる事は無く、
4度の失敗の後に5度目で成功し、
初の鉄製大砲が完成しています。
しかし試射において破裂事故が発生し、
その後も失敗を繰り返して、
大砲が完成するのは14度目の鋳造。
以後は同年10月に2号炉、
翌嘉永5年4月に3、4号炉を造設し、
大砲鋳造は軌道に乗りました。
「築地反射炉跡跡」。
築地反射炉があった市立日新小学校に、
反射炉の模型が建てられています。
手前は24ポンドカノン砲の模型で、
日本初の鉄製大砲の復元とのこと。
佐賀藩の成功を幕府も聞き及び、
50門の大砲を注文。
これらの殆どは品川台場に設置され、
長崎の台場にも設置されています。
築地反射炉は安政4年頃まで稼働し、
廃炉された後は手銃製造方の工場となり、
その後は田畑となっていたようで、
現在は市立日新小学校となっています。
近隣に築造された多布施反射炉と共に、
約300門も大砲が鋳造されますが、
安政期に双方とも廃炉されており、
その理由は明らかとなっていません。
たぶん採算が合わなかったのでしょう。
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現存する当時の反射炉。
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反射炉を民間で建造した賀来家。
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10代藩主鍋島直正の墓所。