佐賀県佐賀市 鍋島家春日御墓所

佐賀藩主鍋島直正(閑叟)は、
文化11年に江戸桜田藩邸で生まれ、
明治4年に58歳で同じく桜田藩邸で死去し、
亡骸は麻布の賢宗寺に葬られました。

この春日山には遺髪納められていましたが、
平成11年になって遺骨が賢宗寺より改葬され、
また、最後の藩主鍋島直大も、
平成28年にここに改葬されています。


鍋島家春日御墓所 入口」。
長崎自動車道佐賀大和ICを降り、
国道263号線を北へ進むと、
案内の標識が見えてきますので、
それに従って小道に右折して登ると現れます。


鍋島家春日御墓所」。
墓域には神道式に土盛された円墳が並んでいます。
直正の墓はその一番奥。


贈正ニ位藤原朝臣直正卿之墓」。
最も奥の正面にある鍋島直正の墓。
天保元年に父鍋島斉直の隠居によって藩主となり、
※当時は将軍徳川家斉の偏諱を与えられ、
 鍋島斉正と名乗っています。
財政にあえぐ佐賀藩の財政改革を断行し、
倹約令および歳出の削減、借金の放棄と長期割賦、
磁器などの産業振興を積極的に行い、
佐賀藩の財政を健全化させています。
また、長崎警備を担当した経緯から、
西洋技術の導入も積極的に行い、
西洋式の大砲蒸気船等の製造にも成功しました。
文久元年に隠居して閑叟と号し、
京都に上って国事に奔走しますが、
他勢力と一定の距離を置いています。
鳥羽伏見の戦い新政府軍が勝利すると、
そのまま佐賀藩兵は新政府軍に加わり戊辰戦争に出兵。
最新式の装備を揃えた佐賀藩兵は、
戊辰戦争勝利に大きく貢献しました。
明治元年に直正と改名。
新政府の議定軍防事務局輔に就任し、
以降は制度事務局輔行政官機務取扱待詔院上局議長
制度寮総裁蝦夷開拓督務などを兼任し、
議定を辞任した後、蝦夷開拓長官大納言に就任しますが、
明治3年に体調を崩して職を辞し、明治4年に死去しました。


従一位勲一等侯爵鍋島直大卿之墓」。
直正の墓の隣にある11代藩主鍋島直大の墓。
上記のように直大の遺骨もここに改葬されています。
直大は文久元年、父直正の隠居によって藩主となり、
直正の改革路線を受け継いで富国強兵政策を進め、
戊辰戦争では最新鋭の佐賀藩兵を派遣して、
新政府軍の勝利に貢献しました。
廃藩置県後は、岩倉使節団に随行して米英に留学し、
帰国後は外務省御用掛駐伊特命全権公使等に就任。
以後、日本の近代化政策を牽引し、
大正10年に死去。
当初は青山霊園に葬られていました。

この墓所には鍋島家の他、
一人の佐賀藩士の墓もあります。

古川興一源松根之墓」。
直正に殉死した佐賀藩士で歌人の古川松根の墓。
古川は文化10年に江戸桜田藩邸で生れていますが、
その翌年に同じ藩邸で直正が生れ、
幼少より遊び相手であったという。
直正が藩主となって倹約を宣言すると、
古川は率先してこれを励行。
多芸万能であった古川は、直正は誠心誠意尽くし、
諸調度品の整理や、庭の意匠に才能を発揮しています。
直正は家臣以上の存在として古川に接し、
狩りに同伴した古川が過って落馬した時には、
直正自らが馬から飛び降りて古川を抱き起して、
付近の民家に連れて行って看病したという。
直正が明治4年に病で死去すると、
時世の和歌と遺言、依頼状を書き、
切腹して殉死を遂げています。

平成28年に直大の墓が改葬されたことにより、
佐賀藩主全11代全ての遺骨が佐賀に揃ったという。
藩主は参勤交代で領地と江戸を行き来していますので、
領地で死去する場合もあれば、
江戸で死去する場合もありますので、
なかなか全ての遺骨が揃うことは無いでしょうね。
※江戸で揃うケースはあります。

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