佐賀県佐賀市 佐賀城跡

武士道とは死ぬことと見つけたり
葉隠武士と幕末の肥前藩のイメージは、
僕の中で結びつきません。
葉隠武士はどちらかというと、
水戸藩士の方がそれに近いような気がします。
※個人的意見です。

肥前藩は西洋技術の摂取に努めた最も近代的な藩で、
諸藩が右往左往する中で、幕末の政局に左右されず、
自藩の発展のみに尽くしていた感があり、
幕末も末期に入って完全に大勢が決して初めて姿を現し、
多くの血が流れている薩長土に加わって、
漁夫の利を得た様にも見えます。

実際の「葉隠」というものは、
山本常朝武士の心得を筆録したもので、
武士としてどう行動するのが正しいかを書いたもの。
「武士道とは死ぬことと・・」が独り歩きしていますが、
己の生死にかかわらず、正しい決断をせよ
と説いています。
つまり死んだ方が正しいならばすぐ死ぬべきであり、
生きていた方が正しいならば生きるべきということ。
これって、
吉田松陰の「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし
」と一緒。

結局のところ、無駄な血を流さずせっせと近代化に努めた事で、
維新(というより戊辰戦争)の立役者に成り得たわけですし、
肥前藩兵がいなければ、上野庄内箱館もどうなっていたか。
多くの血を流した派手な勤皇藩も大切な役割なのですが、
地味ながらコツコツ近代化を図った肥前藩も、
維新の役割を担ったといえます。

さて、今回は肥前藩の藩庁である佐賀城を訪問しました。
佐賀城は佐賀平野の中心付近に建設された平城で、
元々龍造寺隆信の居城であった村中城を、
隆信の死後にその跡を継いだ鍋島直茂が改修した城です。

鯱の門及び続櫓」。
佐賀城本丸の表門で、現存する唯一の建造物。
佐賀城の建造物のほとんどが、
明治7年の佐賀の乱で焼失しました。
この「鯱の門」にも佐賀の乱の傷跡がみられ、
扉には無数の弾痕が残ります。

佐賀城は当時佐賀県の県庁となっており、
明治7年時の県令は岩村高俊
戊辰戦争で河井継之助との交渉を決裂させ、
長岡藩を敵に回して北越戦争を引き起こし、
大損害を招く失態を犯したあの岩村精一郎です。
やはりこの佐賀の乱でもやらかしました。
乱の首謀者の一人島義勇に対し、
佐賀士族を見下した態度を取ったり、
島や江藤新平らが派遣した山中一郎に対し、
威圧的な態度を取るなどして反乱させ、
佐賀城を火の海にしてしまいました。
※この岩村の県令抜擢は、大久保利通の策略であり、
粗野で乱暴な岩村なら江藤らを反乱させるはずなので、
江藤嫌いの大久保がわざと反乱を起こさせたという説もある。
もしそうなら岩村は期待を裏切らないデキる男です。



佐賀城本丸歴史館」。
本丸御殿の一部を忠実に復元したもの。
一部と言ってもかなりの規模。
なんと拝観料は無料(!)なのです。


アームストロング砲(複製)」。
御玄関先にはアームストロング砲の複製が置かれていました。
肥前藩はアームストロング砲を自力で開発したとされ、
戊辰戦争でも導入されました。
外国製のアームストロング砲と同性能かはわかりませんが、
それに近い性能ではあったのでしょうね。


モルチール砲」。
こちらはモルチール砲(臼砲)と呼ばれるずんぐりした大砲。
大射角で打ち上げる射程距離の短い砲です。
真上に打ち上げて、目標には上から落ちるように着弾します。
先ほどのは複製ですが、この2砲は本物で、
右はオランダ製の長崎神ノ島砲台に設置されたもので、
左は蓮池藩(支藩)の製造したのものです。


外御所院」。
で、内部です。
一之間ニ之間三之間四之間に、
廊下を合わせ320畳の大広間
ここで、お披露目などの藩公式行事が行われていました。
広いしキレイですね。
現存するこういう大広間もありますが、
こういう出来立ての方が当時の雰囲気に近いのでは?


「外御所院」を外から見る。
大きいですね。
この規模の木造建設はなかなか作れませんよ。
復元した佐賀県はすごいと思います。

日本の城のシンボルといえば天守です。
やはり復元するならば天守を・・って考えがちなもの。
ですが、本来の城のメインは御殿です。
その本丸御殿を復元した佐賀県は、
何が正しいのか理解している葉隠精神を持っているのかな?

【佐賀藩】
藩庁:佐賀城
藩主家:鍋島宗家
分類:35万7000石、外様大名(国持)

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