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鹿島藩主鍋島家の墓所は普明寺。
3代藩主鍋島直朝の長男断橋(鍋島直孝)が、
久保山に開基した黄檗宗の寺院。
断橋は病弱だった為に家督は継がずに出家。
弟の鍋島直條が4代藩主となっています。
父直朝や弟直條の援助によって創建され、
鹿島藩鍋島家の菩提寺として栄えました。
「石門(総門)」。
独特な形をした石造りの門。
石橋の左右には竜眼の池があり、
池を竜の眼、石門が龍の口とのこと。
龍の首をイメージした参道を通ると、
竜の腹である楼門及び本堂が見えてきます。
「楼門」。
静寂の空間といった感じの美しい風景。
黄檗宗寺院の特徴の左右に伸びる回廊は、
本堂へと続いています。
「本堂」。
かなり荒れているようで、
住職の居ない廃寺となっています。
回廊には魚板が吊るされていました。
魚板は時刻や諸事を叩いて知らせるもので、
僧の人数の多い寺であったのが窺えます。
「鍋島直紹 則子墓」。
鹿島鍋島家15代当主鍋島直紹と、
妻の則子の墓。
公選の佐賀県知事で自民党から立候補し、
第2次佐藤第1次改造内閣で、
科学技術庁長官になっています。
[トンさん(殿さん)]と呼ばれ、
地元で親しまれていたという。
龍の尻尾を模した小路を進むと、
鹿島藩鍋島家の墓所が見えてきます。
「鹿島藩鍋島家墓所」。
笠塔婆型の墓石が整然と並んでおり、
藩主と正室の墓が交互に配置されています。
とりあえずここは置いといて、
少し離れた3代藩主の墓へ。
「普明寺殿前泉州太守従五位下
高岳絶龍大居士壽墖(右)」、
「壽性院殿圓成寛相大師之墖(左)」。
3代藩主鍋島直朝とその正室の墓。
鹿島藩初代藩主は鍋島忠茂ですが、
彼の子で2代藩主の鍋島正茂は、
宗家の圧力に耐えかねて出奔。
江戸に出て幕府旗本となっていますので、
3代の直朝が初代として扱われています。
正茂には継嗣が居なかった為、
祖父の鍋島勝茂は九男の直朝を、
強制的に継嗣としましたが、
この件で勝茂と正茂に軋轢が生まれ、
政茂は勝茂の理不尽さを幕府に提訴。
これに勝茂は激怒して圧力を掛けるに至り、
正茂は鍋島家を出奔してしまいました。
これに同情した幕府は正茂を召し抱え、
政茂は旗本鍋島家を創設しています。
この為に2代藩主以前の鍋島家と、
3代以降の鍋島家は別家となり、
直朝が初代の扱いとなりました。
直朝の墓所を参って先程の墓所へ。
「正統院殿前播州太守朝散大夫
泰窩春大居士墖(右)」、
「寶善院殿寂湛淨空大姉之墖(左)」。
4代藩主鍋島直條とその正室於千代の墓。
3代直朝の三男として生まれ、
幼少時より聡明であったという。
父の隠居により家督を相続しますが、
藩の財政は困窮しており、
宗家より度々援助を受けたようです。
33年の治世の後に死去。
「徳雲院殿前泉州太守朝散大夫
大年際雄大居士之墖」。
5代藩主鍋島直堅の墓。
4代直條の五男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続。
22年の治世の後に死去しています。
「天祥院殿前備州太守朝散大夫
泰山際運大居士之墖(右)」、
「定慧院殿智月耀榮大姉之墖(左)」。
6代藩主鍋島直郷と正室於市の墓。
5代直堅の長男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
凶作が続いて財政難に拍車が掛かり、
参勤交代の費用が調達できなかったという。
35年の治世の後に隠居し、
7年後に死去しています。
鹿島藩7代藩主鍋島直煕は、
佐賀藩5代鍋島宗茂の十男。
6代直郷の養嫡子となり、
養父の隠居によって家督を継ぎますが、
兄で佐賀藩7代の鍋島重茂が早逝し、
継嗣が無かった為に宗家に戻り、
佐賀藩8代藩主となった為、
鹿島藩7代の墓はここにはありません。
続く。
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