佐賀県小城市 星巌寺/小城藩鍋島家墓所

小城鍋島家の墓所は星巖寺
境内にある五百羅漢が有名な寺院でした。


星巖寺 楼門」。
別名龍宮門とも呼ばれるように、
龍宮城のような外観をしています。
嘉永5年に竣工したもので、
外見は中華風ですが造りは木造の和風様式。
小城藩が長崎警護を担当したことから、
中国風様式の影響を受けていたという。


楼門を抜けると広場となっていました。
ここはすでに住職のいない廃寺で、
遺跡として整備されている場所のようです。
たぶんここには本堂等があったのでしょう。


広場の奥には回廊が残されており、
墓所や報恩堂に続いています。


報恩堂」。
歴代藩主の位牌が納められたお堂。


五百羅漢像」。
藩主墓所前に並べられた五百羅漢像
五百となっていますが、
実際には約200体とのこと。
泣き、笑い、叫び、怒りなど、
各羅漢が様々な表情をしています。
この奥が小城鍋島家墓所


月堂善珊大居士(右)」、
高岳院殿〇善大姉淑〇〇(右)」。
初代藩主鍋島元茂の墓と正室仁王姫の墓。
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の長男でしたが、
勝茂の継室菊姫徳川家康の養女だった為、
菊姫の子四男鍋島忠直が継嗣となり、
元茂は後に小城7万5000石が与えられて、
小城藩を立藩しました。
藩主ながら剣の達人であったようで、
柳生宗矩から最初の印可書を受けてます。


2代直能公」。
2代藩主鍋島直能の墓。
※墓碑銘は風化で全く読めません。
初代元茂の嫡男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
剣の達人で武勇に優れた父とは違い、
文人肌の藩主であったという。
25年に治世の後に隠居し、
小城で余生を過ごしています。

3代藩主鍋島元武の墓は玉毫寺にあり、
ここにはありません。


四代藩主元延公御霊屋」。
4代藩主鍋島元延御霊屋
3代藩主元武の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続しましたが、
その翌年に20歳で病死しました。
墓所内で唯一御霊屋が残っています。


圓覺院殿錦山淨高大居士塔」。
5代藩主鍋島直英の墓。
3代元武の三男として生まれ、
佐賀藩御親類格多久家の養子となり、
その家督を継ぎました。
兄の4代元延が急死してしまった為、
実家に戻って5代藩主となります。
治世で享保の大飢饉が発生し、
領内が大被害に見舞われました。

6代藩主鍋島直員の墓も玉毫寺。


檀香院殿復聞通機大居士塔」。
7代藩主鍋島直愈の墓。
6代直員の次男として生まれ、
父の隠居に伴い家督を相続。
藩の財政悪化が深刻化しており、
宮家御馳走役の経費も調達出来ず、
幕府に拝借を願った程であったという。
30年の治世の後に隠居。


天院殿懿徳英倫大居士塔」。
8代藩主鍋島直知の墓。
7代直愈の長男として生まれ、
父の隠居に伴い僅か11歳で家督を相続。
10年の治世の後に21歳で病死しました。

9代藩主鍋島直堯の墓も玉毫寺。


謙光院殿恭岳良温大居士塔」。
10代藩主鍋島直亮の墓。
9代直堯の長男として生まれ、
父の隠居により家督を相続します。
プチャーチン艦隊の長崎来航に伴い、
佐賀藩と共に長崎を警固。
藩軍制の洋式化の基礎を作り、
万延元年遣米使節に藩士を派遣しますが、
元治元年に36歳で死去しています。


潤徳院殿〇〇恵春大姉塔(左)」、
威徳院殿全機直雄大居士(中央)」、
真誠院殿良温淨貴大姉塔(右)」。
11代藩主鍋島直虎の墓と、
正室春子及び継室貴子の墓。
佐賀藩10代鍋島閑叟の七男で、
先代直亮の婿養子となって家督を継ぎ、
明治6年に実兄の鍋島直大や、
実弟の鍋島直柔と英国へ留学。
帰国後は外務省御用掛となり、
後に貴族院議員を5期連続当選しています。

この星巌寺は住職の居ない廃寺ですが、
綺麗に整備されていることから、
行政か何らかの団体が管理している模様。
住職が居ても困窮する寺もある中で、
廃寺となっても管理されているので、
とても良い感じになっていました。

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