玉毫寺は小城藩3代鍋島元武の菩提寺で、
その死後に創建された黄檗宗の寺院ですが、
開山は本人の元武となっています。
元武は2代鍋島直能の次男として生まれ、
嗣子に指名されていましたが、
17歳で疱瘡を患って顔にあばたが残り、
人前に出るのを恥じるようになりました。
以後は僧侶となる道を選ぼうとしますが、
父の隠居により家督を継ぐ事となり、
3代藩主として33年間小城藩を治め、
将軍徳川綱吉にも非常に信頼されたという。
隠居後は若い頃に目指した仏道を進もうと、
玉毫寺の建設を進めていましたが、
その完成を待たずに死去しています。
「山門」。
県道48号線より入った場所にありますが、
その奥は公民館となっており少し迷います。
山号[金粟山]の額は悦山道宗の書。
※悦山は黄檗宗大本山萬福寺7世。
「本堂」。
玉毫寺は小城藩より寺領として40石、
山林80町歩を与えられています。
その割に本堂は少し遠慮がちな大きさ。
「鍋島家墓所」。
本堂の東側にある鍋島家の墓所。
墓所は上下2段に分かれており、
上段は3代元武のもので、
下段は6代鍋島直員と、
9代鍋島直堯の墓があります。
まずは上段の3代元武の墓へ。
石段の上に門が建てられており、
その奥の霊屋に墓があります。
「開山金粟明老和尚塔」。
3代藩主鍋島元武の墓。
霊屋の扉は格子となっていますので、
中の墓石が覗けるようになっていました。
元武は玉毫寺の開山となっていますので、
碑銘には和尚の敬称が使用されています。
下段へ。
6代直員の霊屋。
こちらも扉が格子となっており、
霊屋の中が覗けます。
「法眼院殿黙然淨一大居士」。
6代藩主鍋島直員の墓。
5代鍋島直英の次男として生まれ、
父の死去に伴い家督を相続しました。
20年の治世の後に隠居していますが、
特筆される事項はあまりないようです。
「鍋島左兵衛佐藤原直堯」。
9代藩主鍋島直堯の墓。
7代鍋島直愈の次男として生まれ、
8代鍋島直知が嗣子無くして早逝した為、
養嫡子となって家督を相続。
小城藩は7万3000石の中堅大名ながら、
支藩である為に無城大名となっていた為、
蓮池藩8代鍋島直与と共に、
7度も城主格昇進を嘆願しますが、
佐賀藩に全て断られています。
藩政では藩校興譲館の改革に着手し、
橋本岡陰や鴨打謙斎らを登用し文武を奨励。
47年の治世の後に隠居しており、
明治6年に死去しました。
6代、9代が葬られた理由は不明ですが、
偶然にも3の倍数代となっています。
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